第149話 風雷は吹きて惑わず ~帰り着く場所~ 前編
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──命令が届いた。
「かすみ、出番だよ。人間を蹴散らす、簡単なお仕事だ」
私は——葉隠霞。
だけど、その名はもう過去のもの。
今のあたしは、ただの『かすみ』。
『かすみ』と呼ばれるたびに、霞だった頃の自分が、風に溶けていく気がした。
彼の声は、耳に届く前に、風が運んでいた。
雷は、胸の奥で小さく震えた。
それは怒りでも、恐怖でもない。
ただ、静かな『了承』だった。
かすみは、目を閉じる。
風が頬を撫でる。
雷が、皮膚の下で脈打つ。
風が囁く。
「忘れろ」と。
雷が叫ぶ。
「壊せ」と。
「人間か」
その言葉に、何の感情も乗っていない。
かつてなら、ためらいがあった。
かつてなら、誰かの顔が浮かんだ。
でも今は——風がそれを吹き飛ばし、雷が焼き払った。
「命令なら、従うだけだよ」
それは、霞の声ではなかった。
風に染まった声。
雷に焼かれた声。
彼女の『意思』は、もう力の中に沈んでいた。
でも——ほんの一瞬だけ、胸の奥が軋んだ。
風が、問いかけるように揺れた。
雷が、迷いのように弾けた。
「……人間という『枠』を壊す。それって、あたしが『完全にこっち側』になるってことだよね?」
誰かが囁いた。
そのとき、ほんの一瞬だけ、誰かの名前が浮かびそうになった。
あの声が、まだ耳に残っていた。
「もう戻れないよ」
かすみは、笑った。
それは、風に乗った笑み。
雷に染まった笑み。
「戻る気なんて、ないよ。だって——あたしを壊したのは、人間だった」
風が、彼女の背を押す。
雷が、彼女の足元を照らす。
かすみは、歩き出す。
その足取りは、軽く。
その瞳は、赤と金に染まっていた。
──葉隠霞。
風雷の乙女。
今、かつての『仲間』を標的に定める。
◇
──足音が近づいてくる。
ダンジョンの奥へと踏み込む探索者たち。
その中には、見覚えのある顔もあった。
同じ制服。
同じ教室。
同じ昼休みの、くだらない会話。
霞は、岩陰に身を潜めながら、風の中にその気配を感じ取っていた。
雷が、胸の奥で小さく鳴る。
それは、懐かしさではなく──警告だった。
「……あたし、あそこにいたんだよな」
風が、彼女の髪を揺らす。
それは、過去をなぞるような優しい動きだった。
でも、霞は団扇を握りしめる。
その表面に刻まれた桜と紅葉が、微かに震える。
「もう、戻れない。あたしは『こっち側』なんだ」
──モンスター。
そう呼ばれる存在。
ダンジョンの奥に潜み、探索者を喰らう者。
でも、霞は『かつて』彼らと同じ側にいた。
同じ制服を着て、同じ未来を語っていた。
その未来を、誰かが焼き払った。
「それでも、あたしを差し出したのは『人間』だった」
雷が、指先に集まる。
風が、彼女の背を押す。
霞の瞳が、赤と金に染まる。
「だったら、あたしは──『人間という枠』を壊す」
その言葉に、風がざわめく。
雷が、喜びのように弾ける。
でも、ほんの一瞬だけ。
霞の胸が軋んだ。
制服の袖に残る、かつての仲間の手の感触。
教室の窓から見た、同じ空。
「また明日な」って笑った、誰かの声。
「……ごめんね」
その声は、誰にも届かない。
風が、かき消した。
雷が、焼き払った。
そして、静かになった。
まるで、何もなかったかのように。
霞は、廊下の角から姿を現す。
探索者たちの目が、彼女を捉える。
驚き。
恐怖。
混乱。
「葉隠……? え?」
その問いに、霞は答えない。
ただ、団扇を振る。
風が唸り、雷が走る。
──葉隠かすみ。
かつての仲間を前に、モンスターとして立つ。
その心は、風に引き裂かれ、雷に焼かれながらも──確かに、進んでいた。
風が裂けた。
雷が走った。
探索者たちの隊列は、瞬く間に崩れた。
「うわっ!」
「隊列が乱れた! 後衛、下がれ!」
「風が……風圧が強すぎる!」
「雷が……走る!」
悲鳴が、風に乗って霞の耳に届く。
雷が、彼らの足元を焼き、風が視界を奪う。
誰もが、散り散りに逃げていく。
秩序は崩れ、連携は断たれ、ただ『個』として逃げ惑う。
霞は、その光景を見下ろしていた。
団扇を振るたび、風が唸り、雷が咆哮する。
その力は、もはや『技』ではなく、『本能』だった。
風は命を奪うために吹き、雷は心臓を止めるために走る。
霞の意思など、もはや必要なかった。
「……弱いな」
ぽつりと漏れた言葉。
それは、嘲笑ではない。
ただ、事実の確認。
「隊列が崩れただけで、もう何もできないのか」
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




