第143話 冬が来る ~終わりの抱擁~
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「……」
カノンは、そっと運ばれていく沙羅を見送った。
その姿は、白く、白くなっていた。
腰の上にまで膨張した水は、白く凍り、熱を失った体を静かに支えている。
頭と肩には、うっすらと霜が降りていた。
まるで、彼女の『火』を封じるための結界のように。
白で覆われた目に、もう光はなかった。
けれど、どこか安らかで、まるで『赦された者』のようにも見えた。
胸元に、白くフワフワとした『虫』が留まっていた。
その白は、私の冬の始まりだった。
胸の奥に、冷たい風が吹いた。
それは、悲しみではなかった。
それは、喪失でもなかった。
それは、『何かが終わった』という確信。
そして、『何かが始まってしまった』という予感。
残り、18人。
これをもって、レイド本隊最後尾にいた者たちは、静かに、完全に、全滅した。
◇氷室しらゆきの想い◇
鏡を見た。
白い肌。
銀の髪。
淡い水色の瞳。
「綺麗だね」
そう言われても、心は動かない。
その『綺麗』は、私の痛みを隠すための仮面。
それは、氷室しらゆきという妖怪の顔。
でも、私は——百合根友梨だった。
泣いて、笑って、嫉妬して。
それが許される存在だった。
今の私は、命令に従うだけの存在。
感情はある。
記憶もある。
でも、行動は『彼』の意志に縛られている。
かつて、彼に死を強制された。
そして、私も彼にそれを強制した。
だから、彼に命令されるたび、私は冷たくなる。
「行け。人間を片付けろ」
その声に逆らえない。
身体は従う。
心は……まだ、どこかで抵抗している。
でも、抵抗は声にならない。
雪のように、静かに積もっていくだけ。
かつて一緒に笑った子たち。
戦って、泣いて、励まし合った子たち。
その記憶は、雪の下に埋めたはずだった。
なのに、足を踏み出すたびに、その記憶が、足元からじわじわと溶け出してくる。
「友梨、フォローしてくれてありがとう!」
「また一人でモンスター倒したんだって!? すごいね!」
「……がんばりすぎないでね?」
ああ、やめて。
そんな声、もう聞こえないはずなのに。
でも、雪虫が羽ばたく。
腰のあたりで、ふわりと。
それは、彼の魂の震え。
かつて私を裏切った人。
でも、今は私の『冬』になった人。
彼が嫉妬するたび、私は冷たくなる。
彼が沈黙するたび、私は孤独になる。
だから、命令に従う。
それが、私の存在理由。
それが、私の『冬』の役目。
でもね——もし、誰かが私を『友梨』と呼んでくれたら。
『しらゆき』じゃなくて、『友梨』って。
その時、私はどうなるんだろう?
雪は溶けるのかな?
それとも、もっと深く凍るのかな?
雪虫が飛んでいく。
私よりも先に、獲物を見つけたようだ。
きっと、また『女』なのだろうな。
なんとなく、そう感じた。
心が冷えていく。
「……殺せて、しまいそう……」
その言葉は、命令に従う者の声ではなかった。
それは、心が凍る音だった。
◇そして、いま◇
冷気はヒタヒタと、静かに流れた。
それは、孤独な者の心の隙間を探し、そっと入り込む。
「くっ、クソっ! どうすれば……」
中央部から散らされた者たちの中で、一人きりで彷徨う男がいた。
その背後に、 静寂と寂寥の代弁者が忍び寄る。
「どうしたの?」
綿雪のようにふんわりと、女が訊ねた。
男は息を呑んだ。 女は、白練の振袖をまとっていた。 墨色の枝模様が、冬の静けさを纏わせる。
その白は、しらゆきの名を思わせる。 光を受けて、ほんのりと白藍の気配を帯びるその布は、 まるで夢の中の雪景色。
ゾクリ。 男の背筋が縮こまる。 足元から競り上がる冷気が、 彼の判断力を奪っていく。
「寒いの?」
女は微笑みながら近づいた。 その声は、春の終わりに舞う雪のように、 儚く、優しい。
「あ、ああ。なんだ、これ……?」
男は自分の体をこすりながら、その異様な冷気を振り払おうとする。
だが、孤独と寒さが、彼の理性を鈍らせていた。
「ふふ、じゃあ、もっと近くに来て。私のそばなら、寒さなんて感じなくなるわ。――何も、感じなくなるから」
着物の重なりが、ゆったりと揺れる。
男の視線が、吸い寄せられる。
「あら、いけない人」
女は胸元を抑え、背を向ける。
そして、うなじを見せて振り返る。
「見てしまったのね。……私の雪に触れた人は、みんな凍るの。あなたも、もう逃げられない」
自然に身を寄せ、男の胸に手のひらを当てる。
「ありがとう。あなたの温もり、少しだけ……感じられた。――それじゃ、静かに眠ってね。 その眠りが、安らかでありますように」
女は男の頬に、触れるだけのキスを落とした。
その瞬間、冷気が渦を巻く。
すべての熱が、氷点下にまで落ちていく。
男は、沈黙して女の胸の中に居た。
「ほら、ね?」
細雪のような、儚く静かな囁き。
「もう、何も感じない」
女が胸に抱いていた氷の柱は、春を待つことなく、細かくなって風になるだろう。
儚くも美しい、冬の名残のように。
残り、17人。
◆氷室しらゆき視点◆
……私は、いま、確かに命を奪った。
命令じゃない。
衝動でもない。
自分の意志で。
自分の手で。
その人は、私に暖かさをくれた。
人間の体温を。
心の温度を。
でも、私はその手を、凍らせた。
砕ける音がした。
それは、骨の音ではない。
私の中の『ためらい』が砕けた音だった。
ああ、もう戻れない。
私は『百合根友梨』じゃない。
私は『氷室しらゆき』。
雪女。
人の温もりを拒み、命を凍らせる者。
……でも、不思議。
涙は出なかった。
悲しみも、怒りも、もう感じない。
ただ、静かだった。
心の奥まで、雪が降り積もっていくような静けさ。
「これが、私の選んだ冬」
その呟きとともに、私は初めて『しらゆき』として息をした気がした。
冷たく、澄んだ空気が肺を満たす。
それは、罪の味がした。
雪解け水のように冷たく、喉の奥で苦く広がった。
でも、私はもう震えない。
誰にも縋らない。
誰にも許されなくていい。
私は、雪女。
冬の化身。
凍り付いていた頬が、少しだけ緩んだ。
自分でもわからないくらい、微妙な笑みが浮かんだ。
淡い光を抱いた雪片が、まるで昔の優しさを思い出させるように、頬に触れている。
指先に触れる氷は、冷たいはずなのに、どこか柔らかくて、心の奥がじんわりとほどけていく気がした。
まるで白い焔のように、静かに輝いて見えた。
しらゆきの吐息が舞わせた雪は、冷たいはずなのに、どこか優しくて。
まるで、凍った心の奥に残っていた最後のぬくもりが、形になったようだった。
「私は、雪女。『氷室しらゆき』。希望も絶望も、笑顔も涙も、ただ静かに凍らせる者」
……さあ、次は誰?
もう、迷わない。
たとえ、心が少しだけ痛んでも――それが、私に残された最後の証。
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