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『使い捨てられた補助スキル持ち、迷宮の主になって制服妖怪と学園祭を始める』  作者: 葉月奈津・男
R15版。暴力・性的ニュアンスありバージョン

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第136話 泥の吐露~稲田みずほ視点~ 前編

2/3

 


 泥が静かに沈黙する。

 女子Dの最後の声が、泡になって消えた。

 その泡が、泥の表面で小さく弾けるたび、みずほの胸の奥が、焼けた鉄のようにじわりと熱を帯びていく。


「……沈んじゃった」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 喉の奥が詰まって、声が掠れる。

 それでも、言葉にしなければ、自分が『何かを感じてしまった』ことを認めることになる気がして。


 カルマに命じられたから。

 場所を守るためだから。

 そう言い聞かせてきた。


 でも――『それだけで済ませていいのかどうか、わからなくなってきている』。


 制服は、泥のようにひび割れている。

 その割れ目から覗く肌には、かつて田んぼ焼けた色が、まだかすかに残っていた。


 泥に触れた足元が、じんわりと熱を持つ。

 皮膚の奥にまで染み込んでくるような、湿った熱。

 それは、誰かの後悔。

 誰かの言えなかった言葉。


「ごめん」「待って」「好きだった」

 その一つひとつが、みずほの足首を撫で、ふくらはぎを這い、膝裏にまとわりついてくる。


「……あの頃の泥は、もっと優しかったのに」


 田んぼで泥だらけになって笑った夏の日。

 稲穂の匂い、誰かと交わした視線、泥の中で繋いだ手。


「わたしも、言えなかった言葉がある」


 その言葉を口にした瞬間、泥が、彼女の足元で静かに泡立った。

 まるで、『わかってるよ』と応えるように。


 熱が、太腿の奥まで届いてくる。

 それは、痛みではない。

 でも、心の奥をじわじわと焼くような、『忘れたくないのに、忘れさせようとする』熱。


「カルマ様は、これを『正義』って呼ぶのかな」


 彼女は、カルマの言葉を思い出す。

「罪を沈めろ」「場所を守れ」「声を上げろ」

 それは、命令だった。


 でも、命令に従うたびに、自分の中の『誰かを想う心』が、少しずつ削れていく気がしていた。


 泥の熱が、彼女の身体の奥にある『人間だった頃の記憶』を、ゆっくりと溶かしていく。


「わたしは、まだ『誰か』でいたいのかもしれない」


 その呟きは、泥の静寂に、ぽたりと落ちる雫のようだった。


 ウシガエルが、ぬるりと這い出してくる。

 その背中から伸びる無数の腕が、空を掴もうと、ゆっくりと蠢いていた。


 指先は震え、爪の先には泥が詰まり、皮膚はひび割れ、それでも、誰かに触れようとしていた。


 でも、届かない。

 届かないまま、泥に沈んでいく。


 みずほは、その腕を見つめながら思う。


「わたしも、誰かに届きたかったんだよね」


 その『誰か』の顔は、もう思い出せない。

 でも、届きたいという気持ちだけが、胸の奥で、まだ熱を持っていた。


 彼女は、泥の上に腰を下ろす。

 泥の熱が、太腿からじわじわと染み込んでくる。

 皮膚の奥にまで届くその温度は、まるで『言えなかった言葉』が、身体の内側から溶け出してくるようだった。


 稲穂色の髪が、泥の匂いを撫でる。

 その香りは、懐かしくて、苦しくて、でも、どこか安心する匂いだった。


 風が吹くたび、赤いネクタイが揺れる。

 それは、誰かに問いかける舌のように、彼女の喉元で、そっと揺れていた。


「……ひーきーかーえせー」


 その声は、もはや警告ではなかった。


 それは、誰かに届いてほしいという、最後の祈りだった。


 ◇泥のウシガエル(残滓たちの視点)◇


 彼女が腰を下ろすと、泥の表面が、わずかに波打った。

 ぬるく、重く、湿った熱が、わたしたちの皮膚の名残に触れてくる。


 稲穂色の髪が揺れ、赤いネクタイが風に問いかける。

 その姿は、かつての『誰か』に似ていた。


 わたしたちは、もう名前を持たない。

 声は泡になり、記憶は泥に溶け、言葉は蒸気になって空へ消えた。


 でも、彼女の姿だけは、まだ忘れていない。

 あの夏の光、あの泥の匂い、あの時、笑っていた横顔。


 彼女は、まだ『揺れている』。

 命令に従いながら、問いを抱えている。

 罪を沈めながら、罪を見つめている。

 その矛盾が、彼女を『こちら側』に近づけ、同時に、遠ざけている。


 だから、腕を伸ばす。

 泥の中から、空へ向かって。


 指先は、泥に削られ、皮膚の下から骨の白が覗いている。

 それでも、伸ばす。


 それは、彼女を引きずり込むためではない。

 彼女が沈まないように、その足元を支えるため。


「……まだ、戻れるよ」


 そんな言葉が、泥の蒸気に混ざって、彼女の耳に届くことを願っていた。


 彼女が気づくかどうかは、わからない。

 でも、わたしたちは、彼女が『こちら側』に来ないことを、どこかで願っている。


 そして、それでも、来てくれる日を、どこかで期待して待っている。


 彼女が立ち上がるたび、泥の温度が変わる。

 その熱は、まだ『人間だった頃の心』が、彼女の中に残っている証。


 わたしたちは、その熱を忘れない。

 忘れたくない。


 だから、見つめている。

 問いかけるでもなく、責めるでもなく。

 ただ、『かつての仲間』を、静かに、見つめている。


 ◇女子D(泥の中の心情)◇


「……いや、いやよ。わたしは……だれ?」


 泥の中で、声が泡になって弾けた。

 その泡が、頬を撫でて消えていく。

 まるで、誰かのキスのように。


 誰かの手が、わたしの手を握っている。

 ぬるくて、ざらついていて、でも、どこか懐かしい温度。


 優しい。

 懐かしい。

 でも、名前が思い出せない。


「この手、知ってる……はずなのに」


 指先が、わたしの指をなぞる。

 爪の形、関節の角度、全部、知ってる気がするのに、記憶の扉が開かない。


 自分を泥に沈めた相手の姿が、ぼんやりと見える。

 稲穂色の髪。

 赤いネクタイ。

 ひび割れた制服。


 それは、かつての『誰か』に似ている。

 でも、違う。

 違うから、怖い。

 違うから、悲しい。


「わたしは、まだ……人間でいたいの」


 泥が熱を持っている。

 太腿を撫で、腹を這い、胸元にまで届いてくる。

 そのたびに、記憶が曖昧になっていく。


「ごめん」「待って」「好きだった」

 誰かが言えなかった言葉が、わたしの中からも、じわじわと滲み出してくる。


 でも、言えない。

 もう、言葉が出てこない。

 喉が塞がれているわけじゃないのに、声が、泡になって消えていく。


「ねえ……あなたは、まだ人間なの?」


 問いかけたつもりだった。

 でも、声は出なかった。

 泡になって、泥に溶けていった。


 わたしは、沈んでいく。

 でも、まだ『誰か』でいたい。


 名前を思い出したい。

 誰かに届きたい。


 その願いが、泥の奥で、熱を持って、静かに、静かに、わたしの心を灯していた。


 ◇


 泥の表面で、小さな泡が弾けた。

 その音は、まるで誰かが最後に吐いた息のように、静かで、儚く、確かだった。


「……あなたは、まだ人間なの?」


 みずほは、その声が自分に向けられたものだと、わかっていた。

 胸の奥が、ひとつ脈打つ。

 それは、泥に沈めた者としての痛み。

 それとも、かつて『人間だった』自分への問いかけ。


 でも、答えは返せなかった。

 喉が詰まっていたわけじゃない。

 ただ、言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうで。


『人間である』と答えれば、沈めたことが罪になる。

『人間ではない』と答えれば、自分の心が終わってしまう。


 だから、みずほは黙っていた。

 泥の熱が、足元からじわじわと上がってくる。

 その温度が、答えを代弁するように、彼女の沈黙を包み込んでいた。



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