第135話 熱意のこもる泥 後編
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「だから言ったのに、引き返せって」
「ひっ!」
頭の後ろで声がして、振り返る。
スカートでしゃがみ込む『女』がいた。
「この泥はね、誰かが言えなかった言葉でできてるの」
みずほは、泥の中から聞こえる声に耳を澄ませた。
「ごめん」「待って」「好きだった」
それらが、熱を持って彼女の足元を撫でていた。
「ど、泥の声? どうかしてる!」
女子Dは必死に体を動かした。
泥から逃れようとする。
だが、その動きは徐々に緩慢になっていく。
彼女自身の疲労によるものではない。
泥が硬化し始めていた。
「泥は乾くのよ?」
『女』の声が、 耳の奥に直接流れ込んでくるようだった。
女子Dは必死に足を引き抜こうとした。
だが、泥はもう、ただの泥ではなかった。
足に絡みついたそれは、まるで指のように、彼女のふくらはぎを撫で、膝裏にまとわりつき、 太腿を這い上がってくる。
「や、やめて……!」
泥の中から、声がした。
「……ありがとうって、言いたかったの」
「……どうして、置いてったの?」
「……わたし、まだ、ここにいるのに」
女子Dの足元が、まるで『誰かの腕』に変わっていく。
泥が乾き、硬くなり、彼女の脚を『記憶の棺』に閉じ込めていく。
冷たい。
でも、熱い。
心の奥を、焼かれるように。
「やだ……やだ、やだやだやだっ!」
叫び声が、通路に響いた。
だが、誰もいない。
もう、誰もいない。
「ウソ、ウソ―!」
泥が固まり、女子Dは通路の一部のようになっていた。
どうやっても抜け出せない。
それどころか、足を一ミリも動かせない。
「フレアアロー!」
眼下の石の床に撃ち込んだ。
乾いた土が柔らかくなる。
「やめた方がいいと思うけど?」
「フレアアロー、フレアアロー、フレアアロー!」
女の言葉を無視して、魔法を撃ち続ける。
固まりかけていた泥がどんどんと柔らかくなる。
「これなら!」
抜け出せる!
床に手をついた。
ズボッと沈み込む。
「え?」
力を込めたとたん、腕が肘まで埋まる。
両腕だ。
そして・・・。
「あ、あつい・・・」
足元から熱が伝わってくる。
泥が熱を持っていた。
「泥風呂ね。・・・肌がすべすべになるわ。・・・サウナ、好き?」
「アツ! 熱い!」
逃れようとする女子D。
その体に、泥から這い出た手が掴みかかる。
一本、二本・・・。
数えられないほど重なっていく。
「あつい、熱いィィィィィィぃ!」
女子Dの悲鳴が、通路に反響する。
泥が、まるで生き物のように蠢き、彼女の脚を、腰を、腹を、じわじわと飲み込んでいく。
蒸気を含んだ泥が、肌にまとわりつき、毛穴の奥まで熱を流し込んでくる。
「やだ……やだ……!」
皮膚が赤く染まり、汗と泥が混ざって、彼女の体を艶やかに濡らしていく。
逃れようとした腕に、泥の中から伸びた手が絡みつく。
ざらついた感触。
爪のない指先が、彼女の手首を撫でるように握る。
一本、二本、三本…… 無数の手が、彼女の身体を撫で、引き寄せ、まるで『愛おしむように』抱きしめてくる。
「やだ……やだってば……!」
泥の中で、彼女の声は泡になって弾けた。
言葉にならないまま、熱と湿気に溶けていく。
そのとき――誰かの手が、彼女の手を優しく握った。
「……また会えた。もう、離さない」
その声に、心の奥が震えた。
知ってる。
知ってるはずなのに、思い出せない。
泥が、記憶を曖昧にしていく。
名前も、顔も、感情も、すべてがぬるま湯の中で溶けていく。
最後に残ったのは、目を見開いたままの彼女の顔。
白い湯気が、頬を撫でる。
まるで、誰かが「よく頑張ったね」と 髪を撫でてくれているように。
頬はほんのりと赤く、その表情は、どこか安らかで、まるで『愛された記憶』に包まれているようだった。
逃亡。
そして、拒絶。
彼女の罪は、泥に溶け、蒸気となって、ゆっくりと沈んでいった。
「泥になってしまうわね?」
稲田みずほは、笑うように、憐れむように呟いた。
その声は、泥の温度と同じくらい、ぬるく、重かった。
彼女が腰を下ろすと、泥の中から、巨大なウシガエルが這い出てきた。
背中には、無数の腕。
それぞれが、誰かの名前を持っていた頃の記憶を宿している。
指先には、指輪。
手首には、傷跡。
爪には、色が残っていた。
「私も、ちょっと熱いわ」
みずほは、胸元をはだけた。
白いTシャツの中央に描かれたカエルが、まるで『笑っているように』歪んでいた。
制服のジャケットは、乾いた泥のようにひび割れ、袖の内側からは、陽に焼けた肌と、泥に染まった血管が覗いていた。
赤いネクタイが、風に揺れるたび、まるで『誰かの舌』が問いかけてくるようだった。
彼女の髪は、黒から金へと変わる稲穂色。
その長い髪が、背後の泥の気配を撫でるたび、泥が静かに泡立った。
ウシガエルの背中から伸びる腕たちは、誰かに届こうとしていた。
それが、罰を求めているのか、救いを求めているのかは、誰にもわからない。
稲田みずほは、静かに立っていた。
問いかけるでもなく、答えを待つでもなく。
ただ、そこにいる。
泥田坊としての彼女が司るのは――
場所を守る義務。
蓄積される想い。
責任の追及。
そして、警告。
彼女は、罪へと向かう者に叫ぶためにいる。
「ひーきーかーえせー!」
◇
泥の中から、かすかな声がした。
「……ずっと、いっしょ……」
その声は、 耳ではなく、皮膚に直接触れてくるようだった。
「いや、いやよ。わたしは! わたしって……だれ?」
女子Dの声が震える。
言葉を発するたびに、泥が口元にまとわりつき、『言葉そのもの』を奪っていく。
名前が、思い出せない。
顔も、過去も、すべてが泥の中で混ざっていく。
それは、名前を失った誰かの、最後の記憶だった。
そして、その『誰か』が、今の彼女なのかもしれない。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




