第116話 泥濘の中で(サブリーダー視点)
3/3
『城野敦』。
生理的嫌悪が湧き上がる、最低の男。
その名を口にするだけで、喉の奥がざらつく。
でも――使える。
この『汚物』は、あの女を沈める泥としては、ちょうどいい。
サブリーダーの心は、軽やかにステップを踏んでいた。
まるで、泥濘の上を踊るように。
一葉を、あの女を、腐った沼の底に沈めてあげられる。
リーダーも文句は言えない。
なぜなら、一葉自身が『完全な加害者』ではないから。
もっと悪い奴がいる。
一葉は『被害者』でもある。
だからこそ、同情のそぶりを見せれば、誰も反発できない。
理想的だ。
責めすぎず、でも許さない。
優しさの皮をかぶった毒。
ジワジワと追い詰める。
濁らせる。
曇らせる。
輝きを奪う。
二度と浮かび上がれないように。
泥の底で、息もできないように。
腐った水を飲みながら、笑顔を貼りつけて生きるように。
「あの女は、ヘドロまみれで生きるのがお似合いよ……!」
声が震えるほどの快感。
その言葉は、呪いであり、祝福だった。
狂喜するサブリーダーの手の中。
無限再生される動画がある。
再生ボタンに触れるたび、指先が震える。
何度見ても、飽きない。
何度見ても、笑いが込み上げる。
一葉の造る『エリクサー』が、裏取引されている。
そのことを話している人物たちを、鮮明に捉えた映像。
音声も、表情も、はっきりと。
一葉本人が、教師に諭され、時に脅され、従っている。
その姿が、あまりにも滑稽で、あまりにも醜い。
適正価格の十倍。
誰も買えない。
命を救うはずの薬が、選ばれた者の特権になっていた。
犯罪ではない。
でも、許されることではない。
「ふふ……ふふふふっ……あはっ……ひゃはははははっ!!」
毛布を顔に押し当て、サブリーダーは笑い続けた。
喉が震え、涙がにじみ、腹筋が痙攣するほどに。
笑いが止まらない。
あの女が、泥に沈む音が聞こえる気がした。
テントの布一枚隔てた場所に、靴跡が付いたことにも気づかずに。
その足跡が、どこへ向かっているのかも知らずに。
◇
サブリーダーは、すぐに動いた。
『デートOK』の返信。
ただし、できるだけ早く済ませてとの注文はつけている。
「デートはしてあげてもいいけど、キスまでね。それ以上はキャパいからムリ。雰囲気だけで満足させて、さっさと帰ってくるわよ」
鏡の前で、唇をなぞる。
笑顔の練習。
媚びた角度。
首筋の角度ひとつで、男は勝手に『特別』を錯覚する。
服装はどうにもならない。
でも、髪型とメイク、そして『仕草』で幻を作る。
完璧じゃなくていい。
『それっぽく』見えれば、男なんて勝手に夢を見る。
「相手はどうせ『初めての人』でしょ。ちょっと目を潤ませて、声を甘くすれば……勝手に自爆するわよ」
鏡の中の自分が、にやりと笑った。
その笑顔が、どこか他人のようで、少しだけ背筋が冷えた。
でも、すぐにかき消す。
今は、演じる時間。
返信は、秒で来た。
「後詰って、ほんと暇なのね」
鼻で笑って、通知を消す。
デートの場所は意外と近かった。
ありがたい。
時間がない。
あと一時間で『最奥』へ向かう。
そこから二時間で、すべてが決まる。
「早く『証拠』を手に入れなきゃ」
その一心だけが、彼女を突き動かしていた。
この一時間で、男一人くらい壊してみせる。
その先にあるのは、あの女の破滅。
通路を、63階層へと戻る。
数回、角を曲がれば目的地だ。
「あ、ほんとに来た」
「あーあ、マジかぁ……」
くすくすと笑う声。
女子が数名、こちらを見ている。
誰かはわからない。
興味のない顔なんて、全部『記号』だ。
名前でも首から下げて歩いてくれればいいのに。
でも、悪くない。
『観客』がいるなら、強引に迫られる心配は減る。
そう思い込むことにした。
「やぁ、僕のお姫様!」
部屋の中央で、手を広げて待つ男子。
これが、城野敦。
「あら、お姫様だなんて……」
はにかんだような声を作る。
浮ついた笑顔を貼りつけて、距離を詰める。
心の隙間に、爪を立てるために。
先手必勝。
序盤で一気に間合いを詰めて、畳み掛ける。
それが最善。
それが、勝者の戦い方。
……なのに。
彼の笑顔の奥に、妙な違和感があった。
目の奥が笑っていない。
いや、笑っているのかもしれない。
別の何かを、隠しているような笑い方。
彼女の毒に気づいたのか?
それとも、彼自身が毒を持っているのか?
どちらでもいい。
イニシアチブは、こちらが握っている。
この場を支配しているのは、自分。
最終的な勝者が自分であることは――揺るがない。
……そう、信じていた。
読了・評価。ありがとうございます。




