第108話 予兆の始まり ~旧校舎の蠢動~
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『旧校舎』は、冷たさを纏っていた。
壁は灰色に沈み、窓は曇りガラスのように光を拒んでいた。
床には、誰の足音も届かない。
埃が積もりすぎて、時間の層のように重なっている。
空気は動かない。
風が通ったことすら忘れられている。
明るさも、力の気配もない。
ただ、静かで、寒い。
まるで、誰かの心の奥底に沈んだ『封じられた記憶』のようだった。
廊下の隅に、ノートが落ちていた。
ページが開いたまま、床に伏している。
表紙には、手書きの文字。
「祭りの準備」。
その言葉だけが、埃の下から顔を出していた。
ページの端は折れ、インクは滲み、まるで泣いた跡のように歪んでいる。
誰かが、何かを楽しみにしていた。
けれど、その楽しみは、ここに置き去りにされた。
あるいは──忘れられた。
風は、まだ吹かない。
雷も、まだ夢の中。
『旧校舎』は、ただそのノートを見守っていた。
誰かが、もう一度ページを開いてしまうのを、ずっと、ずっと待っていた。
──『旧校舎』の奥。
誰にも見つけられなかった教室の隅。
そこに、『ナニカ』がいた。
それは、かつて『祭りの準備』をしていた。
誰かが来るのを、誰かと笑うのを、ずっと待っていた。
でも、誰も来なかった。
ぬくもりのない箱のようなこの場所に、希望はなかった。
壁は冷たく、窓は閉ざされ、空気は死んでいた。
だから、『ナニカ』はノートを落とした。
ぽとり、と。
まるで、諦めるように。
まるで、誰かを誘う罠のように。
そのノートは、床に伏したまま、誰にも拾われなかった。
表紙には、かすれた文字で「祭りの準備」と書かれている。
ページの間には、色褪せた折り紙の切れ端や、手描きの地図、誰かの名前が走り書きされていた。
そのときだった。
風が吹いた。
そよ、と。
雷でわずかに温められた風が、旧校舎の隙間から入り込んだ。
それは、誰かの背中を押した風。
誰かの心を震わせた雷の余韻。
その風が、ノートのページをめくった。
一枚、また一枚。 まるで、内容を確かめるように。
ページの奥から、何かが覗いていた。
黒く、濡れたような指先。
紙の隙間から、こちらを見ていた。
そして、光が差し込んだ。
今まで入らなかった窓の隙間から、細い光が射し込む。
埃の粒が、金色にきらめく。
だがその中に、黒い影が混ざっていた。
まるで、光に焼かれた何かが、逃げるように壁の隅へと這っていく。
天井のひび割れに沿って、光が這い、壁に残された古い貼り紙を照らす。
「ようこそ、祭りへ」
その消えかけた文字が、光の中で浮かび上がった。
だが、よく見ると── 『ようこそ』の下に、赤いインクで書き足された文字があった。
「──かえれない」
壁を飾る折り紙が、カサカサと笑うように揺れた。
誰かの脚がのるのを待ちきれず、廊下の板が軋む。
笑い声を夢見て、窓が震えている。
『ナニカ』は、気づいた。まだ、終わっていない。
風が戻ってきた。
雷が、ぬくもりを運んできた。
そして、『誰か』が、『どこか』で『立ち上がった』。
『旧校舎』は、静かに息を吹き返す。
それは、再会の準備。
それは、忘れられた約束の、やり直し。
それは、終わらなかった『祭り』の続き。
『旧校舎』は覚えている。
ここが廃墟ではなかった時代を。
だが今は、記憶の中にしか存在しない『過去』を、 誰かがもう一度なぞるのを、待っている。
黒板に書きかけで止まっていた『か』の文字。
その隣に、何かが書き足されていた。
それは、誰かの名前だった。
けれど、読めない。
滲んで、崩れて、まるで──血で書かれたように。
『ナニカ』は、もぞもぞと動き出す。
春のぬくもりに誘われて、そっと動き出す虫のように。
だがその動きには、喜びではなく、長い飢えを満たすための“本能”が宿っていた。
──風が吹く。 それは、誰かの足音を呼び込む風。
雷が鳴る。
それは、目覚めを告げる鐘の音。
『旧校舎』は、目を覚ました。
そして、扉の向こうで、誰かの気配がした。
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