第96話 傘を差す ~赤い雨~ 後編
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それは、戦いではなかった。
それは、贖いでもなかった。
それは、問いを差し出すための一歩だった。
傘を閉じた瞬間。
赤い雨が、彼女の髪に、肩に、頬に落ちた。
冷たいはずなのに、熱を持っているように感じた。
それは、罪の重さだった。
周囲の少女たちが悲鳴を上げる。
虫たちが傘の外を這い回る。
でも彼女は、静かに一歩を踏み出す。
傘を閉じたことで、彼女は『結界の中にいる者』ではなく、『外に出て選択する者』になった。
けれど、同時に『守る者』にもなった。
それは、傘の中にいた自分を、外にいる彼へと繋げるための選択だった。
『彼』の影が、ゆっくりとこちらを向く。
顔はない。
でも、彼女には見えた。
あの日、雨の降る世界で——ノイズだらけの光景の中で——差し出されなかった手。
誰もが目を逸らした、彼の最後の視線。
「・・・ごめんね」
その言葉は、雨に溶けて消えた。
でも、『彼』の影は動きを止めた。
赤い雨が、少しだけ弱まった。
虫たちがざわめき、空が揺れる。
そして——傘の窓が、最後の断片を映した。
それは、『彼』が手を差し出される未来。
誰かが、彼に手を伸ばす未来。
それは、彼女が『選ばなかった未来』。
でも、誰かが選んでいたかもしれない可能性。
機会は、あったはずだった。
でも、顔を逸らして、見えなくしていた。
自分の視界を、傘で隠していたのだ。
それを今、取り戻そうとしている。
虫たちの羽音が、空気を裂いていた。
赤い雨は、もう静かではなかった。
それは怒りの色。
それは、忘れられた者の叫び。
彼女は、傘を閉じたまま立っていた。
肩にかかるレインコートが、雨に濡れて重くなる。
髪が頬に張り付き、視界が滲む。
でも、彼女は目を逸らさなかった。
『彼』の影は、そこにはいない。
彼女の行動は、誰にも見られていない。
それでも、彼女は選んだ。
「・・・これが、私の未来なら」
その声は、誰にも届かない。
虫たちは構うことなく襲いかかる。
傘の力がなければ、守られる術はない。
そして、未来予知の断片すら、今は何も映していない。
それでも、彼女は傘を開き直さなかった。
目を閉じることもなかった。
ただ、その瞬間を受け入れるために、目を開けたまま、立ち尽くしていた。
赤い雨が、彼女の瞳に落ちる。
虫たちの影が、彼女の輪郭を覆う。
そして——
静寂が、訪れた。
傘の窓が、静かに光った。
彼女の目が閉じる直前、視界の端にそれは映った。
——雨は止んでいた。
——空は澄んで、雲がゆっくり流れていた。
——校庭には、色とりどりの傘が咲いていた。
その中に、『彼』がいた。
顔のない影ではなく、制服姿のまま、笑っていた。
「ああ」
小さく息が漏れた。
『彼』のことは何度か見たことがある。
この左目でも、普通の右目でも。
なのに、『コレ』は初めてだった。
「彼も笑うんだ」
笑っているのを見たことがなかった。
それを『おかしい』とも思わずにいた。
『人間』として見ていなかったのだと気付く。
笑わない人間はいない。
笑えない人間はいるとしてもだ。
『彼』は笑えなくされていた。
『誰に?』
「私たち、よね?」
自明だった。
もう一度、『彼』を見る。
手には、壊れた傘。
でも、その傘には、誰かが貼った修復のテープが残っていた。
きっと『ソレ』が『彼』を笑えるように『変えたモノ』。
変わらないモノ。
変わったコト。
戻らない破壊の暗示。
修復の可能性。
彼女は、その傘の隣に立っていた。
彼女の傘は開いていない。
ただ、彼女は『彼』の傘に手を添えていた。
「・・・ごめんね」
「ううん、もういいんだよ」
その断片は、言葉にならないほど静かだった。
それは、選ばれなかった未来。
でも、彼女が命をかけて『差し出した未来』。
傘の窓は、ゆっくりと曇っていく。
赤い雨が、断片を溶かしていく。
そして、最後に残ったのは——。
『彼』の目が、彼女を見ていたという記憶。
それだけが、そこにあった。
その光景は現か幻か。
未来なのか過去なのか。
雨に煙って定かではない。
それでも、確かに『見えた』のだ。
それが、彼女の命と引き換えに見せられた最後の選択、だったのかもしれない。
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