第95話 傘を差す ~赤い雨~ 中編
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彼女は戦うために出たのではなかった。
何かを確かめるために、傘の外に出たのだ。
誰がこの状況を仕組んだのか。
彼女にだけ見えていた『あの影』が何者なのか。
背後で少女たちが叫ぶ。
傘の内側で、誰かが泣き出す声が聞こえた。
誰かが「大丈夫」と繰り返している。
誰かが、傘の骨を握りしめて震えている。
でも彼女は、振り返らない。
彼女以外には『虫』しか見えていない。
『彼』の影は、香子の左目にだけ映っていた。
『あの影』を見て、追おうとしているのは自分だけだ。
傘の中に残された彼女たちは<この先、何を見て、何を失うのだろう。
その未来の断片も、香子の左目には映っていた。
けれど、それを伝えることはできなかった。
伝えたところで、誰も信じない。
信じたとしても、選べるとは限らない。
だから、彼女が行くしかなかった。
彼女の選択は、真実に触れること。
たとえその先に、守るものも、壊すものも待っていたとしても。
それは彼女の秘められた『能力』。
ステータスには出ない、彼女だけの秘密。
『下駄占い』と呼ばれるもの。
雨具を身につけているときだけ発動する、未来の断片を左目に映す力だった。
傘を、レインコートを。
『雨』に関するものを身に付けているときにだけ現れる不確かな力。
左目でだけ、未来の断片を『見る』能力。
赤い雨が降る前、彼女はすでに見ていた。
倒れていく制服姿の少女たち。
そして、虫たちの群れの奥に立つ、顔のない影。
その未来を変えることはできないかもしれない。
けれど、確かめることはできる。
『なぜ、そうなるのか』を。
『誰が、そうしたのか』を。
だから、彼女は傘を閉じた。
そして、歩き出した。
「・・・やっぱり、来るんだね」
彼女はそう呟いて、傘の柄をぎゅっと握った。
この力は、予知ではない。
それは『選択の提示』。
決められた未来が見えるわけではない。
ただ、いくつもある選択肢の、その先にある『ひとつ』の断片が、左目にだけ、静かに滲んでくる。
それも、ほんの一部。
自分の選択が、他人の選択が、織りなす数多の未来。
その中の、ひとつの『かけら』。
とりとめがない。
信頼性もない。
けれど、そこに映るものは、必ず『どこかに存在する可能性』だった。
彼女は、何度も見てきた。
誰かを助ければ、誰かが消える。
自分から動けば、見える範囲は広がるが、危険も増える。
それでも、彼女は今日も傘を差して立っている。
なぜなら、彼女が自分に課した役目は、『選ぶこと』ではなく、『選ばれた未来に責任を持つこと』だから。
傘の窓——彼女の左目にだけ映る、未来の断片を覗くための『視界』。
そこに、影が立っていた。
最初は、ただの黒い塊だった。
形もなく、顔もなく、ただ赤い雨の中に、じっと立ち尽くしていた。
けれど、彼女の左目がそれを捉えた瞬間、断片が、流れ込んできた。
——誰かが叫んでいる。
——誰かが逃げている。
——誰かが、振り返らずに走っている。
その『誰か』の顔は、見覚えがあった。
制服の裾。
背を丸めて歩く姿勢。
右の肘を左手で庇う、あの癖。
記憶の底に沈んでいた『誰か』が、赤い雨の中で、輪郭を取り戻していく。
彼女の心臓が、ひとつ脈打つたびに、断片が、音を立てて繋がっていく>
「・・・嘘でしょ」
彼女は、傘の窓から目を離せなかった。
視界の端が滲んでいくのに、まばたきすらできなかった。
断片は、次々と繋がっていく。
まるで、忘れていた記憶が、強制的に呼び戻されるように。
赤い雨の中、虫たちが舞っていた。
羽音は耳を裂き、空気を裂き、世界を切り裂いていた。
その中心に、ひとつの影が立っていた。
かつての仲間——駆馬。
彼は、あの日、誰にも助けられずに消えたはずだった。
誰もが目を逸らし、誰もが『いなかったこと』にした。
そうするしかなかった。
そうすることでしか、自分たちは前に進めなかった。
でも、傘の窓が見せたのは違った。
彼は、生きていた。
いや、『生き延びてしまった』のかもしれない。
そして今、顔を失ったまま、復讐の使者として、赤い雨の中に立っていた。
彼女の心臓が、ひとつ脈打つたびに、断片が鮮明になっていく。
彼は声を上げなかった。
彼は誰のことも見なかった。
見ていたのは、自分の失われた未来。
誰にも差し出されなかった手。
誰にも呼ばれなかった名前。
「・・・私たちが、見殺しにしたんだ」
その言葉は、誰にも聞かれなかった。
けれど、傘の窓は、それを確かに映していた。
彼女の左目にだけ、あの日の沈黙が焼きついていた。
彼女は、傘を閉じた。
赤い雨が、肩に落ちる。
冷たいはずの雫が、皮膚を焼くように熱い。
それは、罪の重さだった。
彼女は歩き出す。
『彼』の影へと。
かつて見捨てたその背中へと。
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