第78話 抜け出せた者たち ~触覚だけの世界へ~ 後編
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男が食われている間に逃げる腹積もりだったのだ。
蹴られたのが顔でさえなければ、63階層までは一緒に行動することもありえたかもしれないが、顔はない!
「爆弾男とでも仲良くするがいいさ。もっとも、あたしがアイツなら、やっぱ顔面蹴り飛ばすけどね!」
毒を吐いて踵を返す。
サソリの横を通る気にはなれない。
遠回りにはなるが、反対側の通路から逃げようというのだ。
「イタっ!」
駆けだそうとしたとこで、つんのめった。
「なによ、コレ!?」
変なでっぱりがあることに気が付いて眉を寄せる。
ブヨブヨしているようで弾力のある『ナニカ』だ。
周囲が妙にテカテカしていた。
ネバついているようにも感じる。
「なにかが這った跡?」
首を傾げそうになって頭を振った。
そんなヒマはない。
サソリがエサに食いついているうちに、できるだけ遠くへ逃げなくてはならないのだ。
ネバついているところを避けて走るルートを見定め、走り出・・・せない。
「ぐっ、ぐぅぅ・・・!」
背中に、ぬるりとした『ナニカ』が覆いかぶさる。
重さと粘り気が、膝を沈めさせ、肺を圧迫する。
呼吸が浅くなり、体温がじわじわと奪われていく。
「ひ、ひゃっ・・・!」
服の隙間から、冷たい感触が滑り込んでくる。
それは水でも風でもない。
もっと生々しく、もっと執拗な『何か』。
「あ、くっ・・・や、やめ・・・!」
背筋を這う感覚に、思考がかき乱される。
逃げなければならないのに、力が入らない。
体が、言うことをきかない。
べちゃっ。
一瞬、全身の力が抜けた。
床に崩れ落ち、背中を完全に覆われる。
体の芯が、じわじわと溶けていくようだった。
「あ、や、ヤバ・・・!」
焦りが喉を詰まらせる。
拳を握りしめ、振り上げる――
グニッ。
拳は、柔らかくも弾力のある『ナニカ』に沈んだ。
ヌルヌルとした感触が、力を吸い取っていく。
まるで、拒絶すら許さないように。
「や、やだ・・・っ、あ、ふ・・・!」
頭は逃げろと叫んでいる。
けれど、体は震え、熱を帯びていく。
冷たさと熱が交互に押し寄せ、感覚が混線する。
笑いとも、喘ぎともつかない声が漏れた。
目は見開かれ、全身が強張る。
なのに、どこかが、じんわりと緩んでいく。
視界が滲み、色が褪せていく。
音が遠のき、匂いが消える。
味も、痛みも、もうわからない。
残ったのは、触覚だけ。
背中を這う感触。
肌を撫でるような、這い回るような、奇妙な刺激。
それだけが、彼女の『存在』を証明していた。
「い、いや・・・こんな・・・っ!」
怒りを燃やそうとする。
だが、火はすぐに湿った感覚に包まれて消える。
「あ、ふ・・・っ」
声が漏れる。
それは拒絶ではなかった。
恐怖と快楽の境界が、曖昧になっていく。
もういいだろ?
力を抜いて、目を閉じろ。
結果は、変わらない。
もがいても、もがいても、逃れられない。
女の意識は、ゆっくりと闇に溶けていく。
触覚だけの世界へ。
巨大ナメクジが織りなす、ぬめる影の向こうへ。
感覚が霧に包まれ、世界が遠ざかっていく。
◇観察者視点◇
「いやぁ、見応えがあったね!」
カルマは、上機嫌に笑った。
ウィンドウ越しに見ていた主力たちの混乱と崩壊。
そのすべてが、彼の『演出』だった。
「緊迫感の中に笑いがある。裏切りの連鎖、ゾクゾクするよ!」
その背後には、彼が作り出した『わたしたち妖怪』が静かに従っていた。
それとも、『彼を作り出した元人間』が従っていたというべきだろうか?
どちらでもいい。
笑いながら歩くカルマの背中に、誰も声をかけることはできない。
彼の狂気は、あまりに静かで、あまりに正確だった。
通ったあとには、何も残らない。
靴下一枚さえも残さず、すべてを『素材』として取り込んでいく。
そして、妖怪として再構築する。
それは、破壊ではない。
再生でもない。
ただの、演出。
明らかに壊れている。
精神が病んでいるのは、誰の目にも明らかだった。
だけど――誰も、何も言えなかった。
『妖怪』として蘇らされた者たちは、沈黙していた。
彼が壊れた理由のほとんどが、自分たちにあることを知っていたから。
だから、何も言えなかった。
だから、何も止められなかった。
カルマの足音だけが、通路に響いていた。
その音は、まるで幕の開く合図のように、静かで、冷たかった。
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