第77話 抜け出せた者たち ~触覚だけの世界へ~ 前編
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「ま、待って――!」
横道に入った瞬間、男が全速力で駆け出す。
その背中に、女が必死に縋りついた。
置いていかれてたまるか。
その顔には、血と涙と怒りが滲んでいた。
「うるせぇ! 邪魔なんだよ!」
男は振り返りもせず、脚を振り上げた。
女の視界が白く弾け、世界がぐらりと揺れる。
鼻から血が噴き出し、視界が赤く染まった。
男はそのまま、わき目も振らずに走り去る。
逃げ切れば勝ち。
それが彼の『正義』だった。
だが、運命は甘くない。
「チッ、今度は・・・オオサソリかよ!? なんでこんなとこに!」
目の前に現れたのは、59階層のフロアボス。
黒光りする甲殻、鋭く湾曲した毒針。
その存在感に、男の顔が引きつる。
「おい! 手伝え!」
鼻血を拭っていた女の手を、男が乱暴に引っ張る。
ポーションを取り出そうとしていたその手を、無理やり。
「ざけんな」
女の声は、低く、冷たかった。
感情のない、氷のような響き。
「は?」
男の視界が、ぐるりと反転した。
次の瞬間、彼の体は宙を舞い、床に叩きつけられる。
「ガハッ! く、クソがぁ――!」
呻く彼の腹に、サソリの毒針が迫る。
の影が、すぐそこにあった。
「このぉっ!」
剣を振るう。
だが、甲殻に弾かれる。
金属音が虚しく響く。
「ナメんなよ・・・!」
怒りに任せて、力を溜める。
光が集まり、頭上に大剣が現れる。
「喰らえ! ジャスティスソード!!」
神聖な光がサソリの尾を断ち切る。
毒針が床を転がる。
「見たか! これが正義の剣だぜ!」
勝ち誇った笑み。
だが――その手に、剣はなかった。
「あ・・・?」
腕に、細い傷があった。
引っかかれたような、浅い傷。
だが、その痕跡が、すべてを変えた。
転がる毒針を見て、血の気が引く。
鉤のような先端。
それが、確かに自分に触れていた。
「げ、解毒剤を寄こせぇ!!」
女を振り返って怒鳴る。
だが――
「ハンッ」
返ってきたのは、鼻で笑うような短い音。
「女の顔を本気で蹴るようなクズに、くれてやるもんなんかないわよ」
その声は、冷たく、乾いていた。
怒りも、哀れみも、もう残っていない。
「仲間を見捨てる気かぁ!? 俺たち、チームだろ!?」
正義を語るには、あまりにも軽い言葉。
都合のいいときだけ叫ばれる『絆』。
「いまさらね」
女の声は、まるで刃物のようだった。
鋭く、容赦なく、男の幻想を断ち切る。
「あたしら全員。昨日一人見捨てて殺してるよ? 一人も二人も変わんなくない?」
「ぐッ、そ、それは!」
それこそ自分だけじゃない。
なんならおまえもだろ!?
男が言い返そうとするが、女は待たなかった。
「まして、あんたは個人的に恨みがあるし」
ギルティ! と首を切るジェスチャーをしながら、血の付いた腕を見せる。
ポーションで折れた鼻は治っているし痛みもないが、蹴られた事実が消えることはない。
「て、テメェ・・・ッ!」
ガン!
何か言おうとしていた男が口を閉じた。
顔面に、サソリのハサミが裏拳でキマっている。
奇しくも、さっき女を蹴った、その場所だ。
鼻を潰され、歯も数本折れたようだ。
意識も飛んだのだろう。
床に崩れ落ちる。
「ハッ、ざまぁ!」
心の底からの侮蔑が贈られた。
「じゃーねー! サソリのエサさん!」
サソリがカシャカシャ音を立てて男の元へ歩み寄るのを見て、女は背を向けた。
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