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『使い捨てられた補助スキル持ち、迷宮の主になって制服妖怪と学園祭を始める』  作者: 葉月奈津・男
R15版。暴力・性的ニュアンスありバージョン

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第73話 ◆稲田みずほ(泥田坊)視点◆ ~わたしは、まだ、わたしだ~

2/3

 


 あの時、『私』は動けなかった。

 泥の中に足を取られていたわけじゃない。

 ただ・・・怖かった。


 最初に沈んだのは、笑顔ばかり見せていたあの子だった。

「大丈夫だよ」って言って、みんなの前に立った。

 でも、死の手は容赦なく、その足を掴んで引きずり込んだ。

 叫び声は、泥の中で泡立ち、はじけて、何もなかったように消えた。

 その泡が、彼女の最後の言葉だった。


 次に倒れたのは、いつも冷静だったあの人。

「退いて、体勢を立て直す」

 そう言った瞬間、背後から死の腕が伸びて、命を穿った。


『腕』の持ち主が何だったのかは覚えていない。

 ただ、私はその時すでに悟っていた。


「ああ、ここで死ぬんだな」って。


 命を穿たれた仲間。

 恐怖と絶望に見開かれた目が、私を見ていた。

 何か言いたそうだった。

 でも、言葉になる前に沈んでいった。


 私は見ていた。

 全部、見ていた。

 声も出せず、手も伸ばせず。

 ただ、泥の中で立ち尽くしていた。


 最後に残ったのは、私だけだった。

 仲間たちの声が、泥の底から響いてくる。

「なぜ助けなかった?」「なぜ逃げた?」「なぜ・・・わたしを見捨てた?」


 違う。

 違うんだ。

 助けたかった。

 逃げたかったわけじゃない。


 でも、身体が動かなかった。

 心が、沈んでいた。


 その瞬間から、『わたし』は人ではなくなっていた。

 人であることをやめたのは、あの時。

 仲間を守れなかった私が、仲間の魂を背負って生きることになった。


 ううん。

 違うね。

 本当はわかっている。


 人間を辞めたのは、後輩の『彼』を送り出した時。

 死地と知っている場所に、そうとは告げずに。


 送り出した、あの時。

 その方針を聞いて口を噤んだ、あの時だ。


 すでに、仲間を。

 年下の男の子を見捨てていたのだ。


 どんな顔をして、他の人を助けたらいい?

 助ける相手と、見捨てる相手の境界はどこ?


 わからなくなっていた。

 だから、動けなかったのだ。


 泥の中で、わたしはまだあの『時』を繰り返している。

 何度も、何度も。



 声が、背中から響く。

『おまえはもう人じゃない。『妖怪』だ。彼らを喰らえ』


 ・・・違う。

 違うよ。

 わたしは、まだ・・・私でいられる。


 泥に沈んだ仲間たちの声が、耳元で囁く。

 優しかった笑い声も。

 泣きながら叫んだ声も。

 全部、わたしの中にある。


 でも、身体はもう違う。

 指先は冷たく、泥のように重い。


 目を閉じれば、彼らの顔が浮かぶ。

 わたしを信じてくれた人たち。

 その人たちを、今、傷つけろと命じられてる。


 わたしは『妖怪』。

 そして『モンスター』。

 でも、わたしは・・・私のままでいたい。


 この泥の中で、せめて心だけは沈まないように。

 仲間の魂を背負って、わたしは抗う。

 この声に、命令に、運命に。


 わたしは、まだ、私だ。



 風が吹いた。

 ・・・いや、風じゃない。


 泥の中から、誰かの息が這い上がってきた。

 足の下のウシガエルが、静かに鳴く。

 その声は、かつての仲間のひとりが好きだった音に似ていた。


「・・・まだ、ここにいるよ」

 誰かが言った気がした。


 泥の手が、わたしの背後で放射状に広がる。

 その一本一本が、かつての名前を持っていた。


 でも今は、名前を呼ばれるたびに、胸の奥が軋む。

 その声は、懐かしさではなく、呪いのように響いた。


 あの子の手。

 あの人の手。

 わたしを守ろうとしてくれた手。

 今は、わたしを引きずり込もうとしている。


「おまえが拒めば、彼らは苦しむ」

 命令の声が、泥の壁に反響する。

 わたしの胸が、ぎゅっと締めつけられる。


 制服にこびりついた泥は、乾いてひび割れ、肌に食い込んでいた。

 一歩動くたびに、ひびの隙間から冷たい空気が入り込み、まるで『人間だった頃』の皮膚を剥がされるようだった。

 それでも、わたしは動けない。


 ・・・でも、ウシガエルがもう一度鳴いた。

 その音に、わたしの心が少しだけ揺れた。


「わたしは、まだ、わたしだ」

 小さく、でも確かにそう呟いた。


 泥の手が一瞬、止まった気がした。

 泥の手が、わたしの名前を呼ぶのをためらっているようだった。


 その隙間に、わたしは息を吸った。

 重い空気の中で、ほんの少しだけ、光が差した気がした。


 ◇


「泥田坊『稲田みずほ』ちゃんゲットぉ!」

 見捨てたはずの後輩が、『彼』が、そこにいた。

 驚愕に心が揺れて、泥の中に溶けていく。


 ああ。

 これは復讐。

 『私』たちはみんな、泡となって消えていくのだ。


 誰一人、光の下には帰れない。


 泥の手が、『彼』の足元に伸びた。

 でも、『わたし』は目を閉じていた。

 その手の、名前を思い出さないように。


『お帰り。そして、初めまして。みずほ』その声に、胸の奥が軋んだ。

 あの時、見捨てたはずの『未来』が、笑っていた。


 それが、私の『迎え火』。

 それは優しすぎて、痛かった。

 泥の中で凍った心が、少しだけ溶けて、涙になりそうだった。


 その灯りが、『わたし』を呼び戻し。

 泥の底にいた『私』を、もう一度照らし出す。


 その灯りは、ぬくもりを持っていた。

 泥の冷たさを、ほんの少しだけ溶かすような


 いつか、その灯は『還り道』をも照らすのだろうか?

 その問いに答える者はいない。


 だけど、信じよう。

 その灯りは、わたしの名前を呼ぶために灯された。

 忘れられた声を、もう一度思い出すために。


「わたしは、まだ、わたしだ」

 小さく、そう呟いた。

 その道があるなら、わたしは歩いてみたい。

 泥の足でも、きっと。



読了・評価。ありがとうございます。


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