第73話 ◆稲田みずほ(泥田坊)視点◆ ~わたしは、まだ、わたしだ~
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あの時、『私』は動けなかった。
泥の中に足を取られていたわけじゃない。
ただ・・・怖かった。
最初に沈んだのは、笑顔ばかり見せていたあの子だった。
「大丈夫だよ」って言って、みんなの前に立った。
でも、死の手は容赦なく、その足を掴んで引きずり込んだ。
叫び声は、泥の中で泡立ち、はじけて、何もなかったように消えた。
その泡が、彼女の最後の言葉だった。
次に倒れたのは、いつも冷静だったあの人。
「退いて、体勢を立て直す」
そう言った瞬間、背後から死の腕が伸びて、命を穿った。
『腕』の持ち主が何だったのかは覚えていない。
ただ、私はその時すでに悟っていた。
「ああ、ここで死ぬんだな」って。
命を穿たれた仲間。
恐怖と絶望に見開かれた目が、私を見ていた。
何か言いたそうだった。
でも、言葉になる前に沈んでいった。
私は見ていた。
全部、見ていた。
声も出せず、手も伸ばせず。
ただ、泥の中で立ち尽くしていた。
最後に残ったのは、私だけだった。
仲間たちの声が、泥の底から響いてくる。
「なぜ助けなかった?」「なぜ逃げた?」「なぜ・・・わたしを見捨てた?」
違う。
違うんだ。
助けたかった。
逃げたかったわけじゃない。
でも、身体が動かなかった。
心が、沈んでいた。
その瞬間から、『わたし』は人ではなくなっていた。
人であることをやめたのは、あの時。
仲間を守れなかった私が、仲間の魂を背負って生きることになった。
ううん。
違うね。
本当はわかっている。
人間を辞めたのは、後輩の『彼』を送り出した時。
死地と知っている場所に、そうとは告げずに。
送り出した、あの時。
その方針を聞いて口を噤んだ、あの時だ。
すでに、仲間を。
年下の男の子を見捨てていたのだ。
どんな顔をして、他の人を助けたらいい?
助ける相手と、見捨てる相手の境界はどこ?
わからなくなっていた。
だから、動けなかったのだ。
泥の中で、わたしはまだあの『時』を繰り返している。
何度も、何度も。
声が、背中から響く。
『おまえはもう人じゃない。『妖怪』だ。彼らを喰らえ』
・・・違う。
違うよ。
わたしは、まだ・・・私でいられる。
泥に沈んだ仲間たちの声が、耳元で囁く。
優しかった笑い声も。
泣きながら叫んだ声も。
全部、わたしの中にある。
でも、身体はもう違う。
指先は冷たく、泥のように重い。
目を閉じれば、彼らの顔が浮かぶ。
わたしを信じてくれた人たち。
その人たちを、今、傷つけろと命じられてる。
わたしは『妖怪』。
そして『モンスター』。
でも、わたしは・・・私のままでいたい。
この泥の中で、せめて心だけは沈まないように。
仲間の魂を背負って、わたしは抗う。
この声に、命令に、運命に。
わたしは、まだ、私だ。
風が吹いた。
・・・いや、風じゃない。
泥の中から、誰かの息が這い上がってきた。
足の下のウシガエルが、静かに鳴く。
その声は、かつての仲間のひとりが好きだった音に似ていた。
「・・・まだ、ここにいるよ」
誰かが言った気がした。
泥の手が、わたしの背後で放射状に広がる。
その一本一本が、かつての名前を持っていた。
でも今は、名前を呼ばれるたびに、胸の奥が軋む。
その声は、懐かしさではなく、呪いのように響いた。
あの子の手。
あの人の手。
わたしを守ろうとしてくれた手。
今は、わたしを引きずり込もうとしている。
「おまえが拒めば、彼らは苦しむ」
命令の声が、泥の壁に反響する。
わたしの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
制服にこびりついた泥は、乾いてひび割れ、肌に食い込んでいた。
一歩動くたびに、ひびの隙間から冷たい空気が入り込み、まるで『人間だった頃』の皮膚を剥がされるようだった。
それでも、わたしは動けない。
・・・でも、ウシガエルがもう一度鳴いた。
その音に、わたしの心が少しだけ揺れた。
「わたしは、まだ、わたしだ」
小さく、でも確かにそう呟いた。
泥の手が一瞬、止まった気がした。
泥の手が、わたしの名前を呼ぶのをためらっているようだった。
その隙間に、わたしは息を吸った。
重い空気の中で、ほんの少しだけ、光が差した気がした。
◇
「泥田坊『稲田みずほ』ちゃんゲットぉ!」
見捨てたはずの後輩が、『彼』が、そこにいた。
驚愕に心が揺れて、泥の中に溶けていく。
ああ。
これは復讐。
『私』たちはみんな、泡となって消えていくのだ。
誰一人、光の下には帰れない。
泥の手が、『彼』の足元に伸びた。
でも、『わたし』は目を閉じていた。
その手の、名前を思い出さないように。
『お帰り。そして、初めまして。みずほ』その声に、胸の奥が軋んだ。
あの時、見捨てたはずの『未来』が、笑っていた。
それが、私の『迎え火』。
それは優しすぎて、痛かった。
泥の中で凍った心が、少しだけ溶けて、涙になりそうだった。
その灯りが、『わたし』を呼び戻し。
泥の底にいた『私』を、もう一度照らし出す。
その灯りは、ぬくもりを持っていた。
泥の冷たさを、ほんの少しだけ溶かすような
いつか、その灯は『還り道』をも照らすのだろうか?
その問いに答える者はいない。
だけど、信じよう。
その灯りは、わたしの名前を呼ぶために灯された。
忘れられた声を、もう一度思い出すために。
「わたしは、まだ、わたしだ」
小さく、そう呟いた。
その道があるなら、わたしは歩いてみたい。
泥の足でも、きっと。
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