第21話 末路③ ~忘れていく~
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そして、最後の魔法使い。
彼女もまた、狭い通路にいた。
それも行き止まりの通路だ。
「クソ! ついてない!」
壁を殴りつけ、踵を返そうとした。
だが、動けなかった。
ズルッ。
足元が滑るような感覚。
何かが抜け落ちたような、妙な軽さ。
「・・・え?」
視線を落とすと、右足の先が、なかった。
靴ごと、消えていた。
ジン……ジン……。
遅れてやってくる、焼けるような痛み。
皮膚の奥で、何かがきしむような感覚。
「ま、まほ、魔法を!」
震える手で杖を振る。
だが、魔法は壁を焦がすばかりで、背後の『それ』むには届かない。
ギチ……ギチ……ギチ……。
背後から聞こえる、金属が軋むような音。
振り返ると、そこにいたのは紅い甲殻の巨体。
2メートルを超えるサソリ──ハサミムシさん。
「う、うそ・・・!」
ガンッ!
尻尾の刃が、彼女の背を打ち、そのまま壁に叩きつけられる。
ゴンッ! ミシ……ッ。
頭が壁にぶつかり、視界が白く弾けた。
星が飛ぶ。
耳の奥で、キーンという音が鳴り続ける。
「ぐッ、ぎぃぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
その瞬間、毒が回った。
全身に電流が走るような感覚。
筋肉が勝手に跳ね、震え、痙攣する。
ズズ……グチュ……パキ……。
尻尾の刃が、容赦なく体をなぞる。
骨が軋む音。
肉が裂ける感触。
何かが『中から崩れていく』ような違和感。
「わ、私の腕・・・足・・・・・・ひぐっ。おかぁさぁぁぁぁん!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、壁にこすりつける。
痛みは、もうよくわからない。
ただ、冷たくて、熱くて、痺れて、重くて、軽い。
『私って・・・誰だったっけ?』
名前も、顔も、魔法の詠唱すら思い出せない。
ただ、音だけが残っていた。
ギチ……グチャ……ジュジュ……。
それが、自分の終わりを告げる音だと、 彼女はもう、理解できなかった。
こうして、『63階層入り口側見張り所』の駐在人員は、静かに、確実に、迷宮に飲み込まれた。
剣士は、痛みの中で『誰かに見つけてほしい』と願った。
幼き日、母に撫でられた髪の感触を思い出そうとした。
けれど、痛みがそれを塗り潰した。
「助けて」という言葉すら、喉の奥で溶けていく。
見つけてくれるはずの人々の顔が、痛みのノイズでかすんで消えていく。
双子は、『笑い声』を思い出そうとした。
けれど、何も浮かばなかった。
誰と笑っていたのか。
何がそんなに楽しかったのか。
それすら、思い出せなかった。
肌の上を通り過ぎていった思い出の数々が、ぬめりと悪臭にまみれた塊に吸い込まれていく。
「ねぇ、これ一度やってみたかったんだよね?」
そんな声が、遠くで反響していた気がした。
けれど、それが誰の声だったのか、もうわからない。
魔法使いは、『自分の名前』を思い出せなかった。
名前を思い出すことは、自分を思い出すこと。
自分を思い出すことは、『今』を見ること。
そんな勇気が、もうなかった。
ギチ……グチャ……ジュジュ……。
音だけが、確かにそこにあった。
自分の輪郭を削り取るように、静かに、確実に。
剣士の願いは、糸に絡め取られたまま、迷宮の天井に吸い込まれていった。
双子の笑い声は、糞球の中で静かに潰れていった。
魔法使いの名前は、ハサミムシの刃に刻まれることなく、ただ消えていった。
そして、迷宮は静かだった。
まるで、何もなかったかのように。
風もない。光もない。音もない。
ただ、そこにあるのは、『忘れられた者たち』の気配だけ。
それは、壁のひび割れに。
それは、床の染みに。
それは、天井の影に。
静かに、確かに、残っていた。
◇観察者◇
カルマは、ただ見ていた。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
それは、かつて誰にも届かなかった『旧校舎の沈黙』だった。
あの頃、誰も気づかなかった。
誰も、見つけてくれなかった。
だから今、オレは見ている。
ダンジョンはよくできている。
『駒』の配置さえ考えてやれば、その猛威を十分に発揮してくれた。
『手を出すまでもない』。
それは、誇りではなかった。
ただ、空虚だった。
それでも、胸の奥で沈んだものが、いつか芽吹くかもしれないと。
カルマは、少しだけ、目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、誰かの背中。
名前も、顔も、今は思い出せない。
闇の奥から、まだ名も知らぬ『何か』が、静かに、こちらを見ている気がした。
それは、かつての自分か。
それとも、次の『声なき者』か。
迷宮は、今日も静かに呼吸している。
誰かが気づくのを、待ちながら。
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