第二十一話 『祖父』
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生徒たちのざわめきが、遠くから波のように届いてくる。
その音を、『彼』は高所から見下ろしていた。
騒いでいるのは中等部の生徒たちだ。
『彼』は、高等部の校長という立場だった。
小・中・高。
すべてを内包する一貫校。
私立校の校長であり、理事でもある。
屋上の手すりに肘をつき、彼は静かに生徒たちを見下ろす。
その目は、笑い声の先ではなく、もっと遠くを見ていた。
数字の羅列。
予算案。
報奨金の配分。
成功報告書の草案。
学校を上げての計画がある。
うまく行けば、「世界初の快挙」となる。
それが、どれほどの金を動かすか。
どれほどの名声をもたらすか。
計画遂行に、理由は十分にあった。
だが、彼の胸に湧き上がるのは、熱ではなく、冷えた空洞だった。
かつて、息子がいた。
優秀で、誠実で、未来を託せると思った。
だが、世間に呑まれ、帰らなかった。
その死の報せから間もなく、一人の女が現れた。
「彼の子を身ごもっています」そう言った女を、彼は見なかった。
聞かなかった。
認めなかった。
彼に残されたものは、金と肩書きだけだった。
それで十分だと、何度も自分に言い聞かせていた。
だが、生徒たちの喧騒を見下ろすこの高さが、どこまでも孤独であることに、彼は気づいていた。
ずっと、目で追っていた。
駆馬を。
意識していないつもりだった。
ただ、気になるだけ。
ただ、目に入るだけ。
ただ、視界に残るだけ。
だが、その『ただ』が、周囲に歪んだ波紋を広げていた。
その『ただ』が、どれほど重いかを、彼だけが知らなかった。
教師たちは気づいていた。
校長――理事長——の視線が、あの少年にだけ向いていることを。
それは『期待』ではなかった。
『監視』とも違った。
もっと曖昧で、もっと重いもの。
だからこそ、教師たちはカルマを避けた。
生徒たちは、教師の態度を真似た。
誰もが、駆馬を『触れてはいけない存在』として扱った。
「校長が見てるから」その言葉は、誰にも口にされなかった。
でも、誰もが知っていた。
彼は、知っていた。
駆馬が孤独に沈んでいくことを。
自分の視線が、その原因であることを。
だが、認めなかった。
認めてしまえば、『父親』としての自分が死ぬからだ。
だから、彼は『処理』を選んだ。
「駆馬に重要な役割を担ってもらう。『踏み台』になってもらう」
その案が出たとき、誰もが一瞬ためらった。
だが、校長だけは頷いた。
それは合理的な判断だった。
戦術的な選択だった。
そして、感情的な逃避だった。
『苦しいなら、いっそ消してしまおう』
その思考は、静かに彼の中に沈んでいた。
誰にも見せず、誰にも語らず。
ただ、決裁印だけが、彼の意志を代弁した。
駆馬は『踏み台』になることが決定した。
誰も疑問を持たなかった。
それが『校長の判断』だったから。
見張り台の上、校長は息を吐く。
吐き出した熱が、胸の冷えを誤魔化してくれる。
それだけが、彼の慰めだった。
「……あの子は、もう消えるか?」
その呟きは、風に溶けて消えた。
だが、世界は聞いていた。
その言葉が、どれほど冷たく、どれほど重かったかを。
校長の部屋の金庫には、一通の封筒が眠っている。
厚手の紙に、古びたインクで書かれた遺言書。
その筆頭には、たった一つの名前が記されている。
——駆馬。
彼は、その名を記した記憶を持っていない。
いや、正確には『思い出さないようにしている』。
あの夜、酒に酔い、誰にも見られぬように書き上げた。
それは、感情を整理するための行動だった。
ただの『整理』。
そう思い込んでいた。
だが、時折ふと、夢に見る。
あの女が、雨の中で立ち尽くしていた姿を。
「この子は、あなたの孫です」そう言って差し出された手を、彼は見なかった。
見なかったはずだった。
けれど、なぜか覚えている。
その手が、震えていたことを。
その目が、何かを訴えていたことを。
「もし、あの時——」
校長は、静かに目を閉じた。
熱が、胸の奥で冷えていく。
駆馬の名を、彼はずっと見ていた。
見ていたのに、何も与えなかった。
何も語らず、何も残さず。
ただ、『踏み台』として利用する。
それが、彼なりの『けじめ』だった。
過去との決別。
そして、責任の取り方。
「けじめ、か」
言葉はきれいだ。
だが——
その言葉で救われた者を、彼は一人も知らなかった。
我ながら、不器用にすぎる。
校長の、祖父の、口元に苦い笑みがあった。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




