第十八話 『分岐』
2/2
気づいたときには、胸の奥が静かだった。
静かすぎた。
いつもなら、かすかにざわついているはずの場所。
不安や緊張や、言葉にならない何かが渦巻いているはずの場所。
そこに、なにもなかった。
代わりに、ひどく冷たい空気が満ちていた。
『……やめたい』
その声は、確かに自分のものだった。
けれど、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
——動け。
別の声が、胸の奥で響いた。
低く、短く、濁りのない声。
その声に反応して、体が前へ出た。
『ちがう……もう無理だよ……』
駆馬の声は、さらに遠ざかる。
まるで、深い水の底に沈んでいくように。
——動けば、うまくいく。
その言葉だけが、はっきりと、体の中心に刻まれていた。
視界の端が、わずかに揺れた。
世界が遠くなり、体だけが勝手に動き続ける。
『待って……やめて……』
駆馬の声は、もう届かない。
代わりに、冷たい何かが前に出た。
その“何か”は、迷いも、恐れも、痛みも持っていなかった。
——任せろ。
その瞬間、駆馬は後ろへ押しやられた。
体は動いている。
けれど、それを動かしているのは自分ではない。
自分の体を、背中越しに眺めているような感覚。
前にいるのは、もう一人の“自分”。
駆馬ではない。
けれど、駆馬から生まれたもの。
カルマ。
その名を、まだ誰も知らない。
駆馬自身すらも。
鏡に触れた瞬間、空気がわずかに裂けたような気がした。
指先に伝わる冷たさが、いつもより深い。
鏡の奥が、こちらを覗き返しているようだった。
鏡の中で、オレは笑っていた。
もう、笑わなくなったはずの顔で。
笑い方を忘れたはずの口元で。
「オレが代わろう」
誰も来ない教室で、『カルマ』が言った。
声は低く、濁りがなく、迷いがなかった。
「オレは『感情』が薄いから耐えられる」
その言葉は、命令でも、慰めでもなかった。
ただの事実の確認のように聞こえた。
『駆馬』は黙ってうなずいた。
反論する気力もなかった。
反論する理由も思いつかなかった。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
沈んで、沈んで、底に触れたまま動かなくなる。
『駆馬』はそれからずっと、旧校舎で暮らしていた。
薄暗い廊下の隅。
埃の積もった教室。
誰も来ない階段の踊り場。
そこが、駆馬の“居場所”になった。
その間、体は動き続けていた。
カルマが前に出て、すべてをこなしていた。
駆馬は、ただ後ろから見ていた。
自分の体が、自分ではない誰かに使われていくのを。
旧校舎の隅は、昼でも薄暗かった。
埃の匂いと、湿った木の匂いが混ざっている。
駆馬は、その隅にうずくまっていた。
膝を抱え、額を押しつけ、呼吸だけがかすかに動いていた。
動くのを、やめた。
体を動かす理由が、どこにも見つからなかった。
動けばうまくいくはずなのに、その“うまくいく”がどこか遠くに霞んでいた。
『……もう、いいよ』
胸の奥で、駆馬が小さく呟いた。
声にならない声。誰にも届かない声。
——なら、オレがやる。
冷たい声が、背中の内側から響いた。
その声は、駆馬の弱さを責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ淡々としていた。
——動くのはオレでいい。
駆馬の体が、ゆっくりと持ち上がった。
駆馬自身は動かしていない。
その感覚が、はっきりと分かった。
『……カルマ』
名前を呼んだつもりだった。
けれど、声は喉の奥で消えた。
——お前は、そこで休んでいろ。
カルマの声は、静かで、揺れなかった。
感情が薄いからこそ、折れない。
削れない。
潰れない。
駆馬は、その言葉に逆らわなかった。
逆らう気力も、理由も、もうなかった。
自分という存在のすべてを、カルマに委ねた。
視界が遠ざかる。
体が前へ進む。
けれど、その体はもう“駆馬”のものではなかった。
駆馬は、旧校舎の隅で、ただ静かに息をしていた。
その間、カルマが世界を歩いていた。
二人で一つの名前を使いながら、
前に立つのは、もう駆馬ではなかった。
読了・評価。ありがとうございます。




