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『使い捨てられた補助スキル持ち、迷宮の主になって制服妖怪と学園祭を始める』  作者: 葉月奈津・男
駆馬からカルマへ――とある少年の変質――

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第十八話 『分岐』

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 気づいたときには、胸の奥が静かだった。


 静かすぎた。


 いつもなら、かすかにざわついているはずの場所。

 不安や緊張や、言葉にならない何かが渦巻いているはずの場所。


 そこに、なにもなかった。


 代わりに、ひどく冷たい空気が満ちていた。


『……やめたい』


 その声は、確かに自分のものだった。

 けれど、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


 ——動け。


 別の声が、胸の奥で響いた。

 低く、短く、濁りのない声。


 その声に反応して、体が前へ出た。


『ちがう……もう無理だよ……』


 駆馬の声は、さらに遠ざかる。

 まるで、深い水の底に沈んでいくように。


 ——動けば、うまくいく。


 その言葉だけが、はっきりと、体の中心に刻まれていた。


 視界の端が、わずかに揺れた。

 世界が遠くなり、体だけが勝手に動き続ける。


『待って……やめて……』


 駆馬の声は、もう届かない。


 代わりに、冷たい何かが前に出た。

 その“何か”は、迷いも、恐れも、痛みも持っていなかった。


 ——任せろ。


 その瞬間、駆馬は後ろへ押しやられた。


 体は動いている。

 けれど、それを動かしているのは自分ではない。


 自分の体を、背中越しに眺めているような感覚。


 前にいるのは、もう一人の“自分”。


 駆馬ではない。

 けれど、駆馬から生まれたもの。


 カルマ。


 その名を、まだ誰も知らない。

 駆馬自身すらも。


 鏡に触れた瞬間、空気がわずかに裂けたような気がした。


 指先に伝わる冷たさが、いつもより深い。

 鏡の奥が、こちらを覗き返しているようだった。


 鏡の中で、オレは笑っていた。


 もう、笑わなくなったはずの顔で。

 笑い方を忘れたはずの口元で。


「オレが代わろう」


 誰も来ない教室で、『カルマ』が言った。

 声は低く、濁りがなく、迷いがなかった。


「オレは『感情』が薄いから耐えられる」


 その言葉は、命令でも、慰めでもなかった。

 ただの事実の確認のように聞こえた。


『駆馬』は黙ってうなずいた。


 反論する気力もなかった。

 反論する理由も思いつかなかった。


 胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。

 沈んで、沈んで、底に触れたまま動かなくなる。


『駆馬』はそれからずっと、旧校舎で暮らしていた。


 薄暗い廊下の隅。

 埃の積もった教室。

 誰も来ない階段の踊り場。


 そこが、駆馬の“居場所”になった。


 その間、体は動き続けていた。

 カルマが前に出て、すべてをこなしていた。


 駆馬は、ただ後ろから見ていた。

 自分の体が、自分ではない誰かに使われていくのを。


 旧校舎の隅は、昼でも薄暗かった。

 埃の匂いと、湿った木の匂いが混ざっている。


 駆馬は、その隅にうずくまっていた。

 膝を抱え、額を押しつけ、呼吸だけがかすかに動いていた。


 動くのを、やめた。


 体を動かす理由が、どこにも見つからなかった。

 動けばうまくいくはずなのに、その“うまくいく”がどこか遠くに霞んでいた。


『……もう、いいよ』


 胸の奥で、駆馬が小さく呟いた。

 声にならない声。誰にも届かない声。


 ——なら、オレがやる。


 冷たい声が、背中の内側から響いた。

 その声は、駆馬の弱さを責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ淡々としていた。


 ——動くのはオレでいい。


 駆馬の体が、ゆっくりと持ち上がった。

 駆馬自身は動かしていない。

 その感覚が、はっきりと分かった。


『……カルマ』


 名前を呼んだつもりだった。

 けれど、声は喉の奥で消えた。


 ——お前は、そこで休んでいろ。


 カルマの声は、静かで、揺れなかった。

 感情が薄いからこそ、折れない。

 削れない。

 潰れない。


 駆馬は、その言葉に逆らわなかった。

 逆らう気力も、理由も、もうなかった。


 自分という存在のすべてを、カルマに委ねた。


 視界が遠ざかる。

 体が前へ進む。

 けれど、その体はもう“駆馬”のものではなかった。


 駆馬は、旧校舎の隅で、ただ静かに息をしていた。

 その間、カルマが世界を歩いていた。


 二人で一つの名前を使いながら、

 前に立つのは、もう駆馬ではなかった。

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