第十五話 『空虚――平穏——』
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駆馬は中学二年生になった。
環境は、あまり変わっていない。
ただ、変化は確かにあった。
母の罵声や悪態はなくなった。
代わりに駆馬に投げつけられるようになったのは、『要望』だった。
してほしいことを、並べ立てる。
突然、要求される。
それを、駆馬は片付けていく。
料理のコツをつかんだ。
洗濯の段取りが効率よくなり、洗濯干しの生乾き臭が消えた。
掃除が行き届くようになった。
母は、
きれいな部屋で、
しわの無い服で、
おいしいつまみを食べながら、
酒を飲めるのだ。
だから——
罵声や、悪態はなくなった。
そうだ。
駆馬は気が付いた。
自分が先に動けばいい。
動いて、状況を整えれば、うまくいく。
駆馬は少しだけ、前向きになっていた。
◇
家のことを終えて学校へ行くと、駆馬はいつものように気配を消して過ごした。
けれど、その日だけは違った。
誰かが、廊下で転んだらしい。
壊れ物――たくさんのガラス容器――を入れた箱ごと。
廊下がガラスの破片でいっぱいだった。
「は?」
掃除道具を取りに行っていたらしい先輩が、間抜けな声を出した。
保健委員長で、救護班の責任者をしている上級生だ。
床一面に散らばったガラス片は、すでに端に寄せられ、歩ける程度には片付いていた。
「え? あなたが片付けたの?」
「え、あ、はい」
余計なことだっただろうかと身を固くする駆馬に、先輩はふっと笑った。
「助かる。こういうの、丁寧にできる子って貴重なのよ」
駆馬は瞬きをした。
怒られなかった。
呆れられなかった。
避けられなかった。
ただ、必要とされた。
「あなた、『使える』人材ね。ちょっと手伝ってほしい仕事があるの」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。
◇
先輩――石清水一葉に連れられて行った先は、理科室だった。
彼女は校外活動で『薬品に関連する』作業をよく行う人だった。
評価も高いらしい。
だからだろう――
「あんた、誰?」
理科室に入った途端、別の先輩が不審げに駆馬を睨んだ。
白衣の袖をまくり、手には器具のチェックリスト。
その視線は鋭く、敵意というより“縄張り意識”に近い。
「誰の許可をもらったのかって聞いてんのよ!」
返事ができずにいると、胸ぐらをつかまれそうな勢いで距離を詰められた。
「あ、えと――」
「あー、私が許可したの。彼は『使える』わ」
予備室から戻ってきた一葉が、淡々と告げた。
その声は、まどかのように柔らかくもなく、
クラスメイトのように冷たくもない。
ただ、必要なものを選び取る人間の声だった。
「……そう。ならいいけど」
先輩は一葉の言葉にあっさり引き下がった。
その態度に、駆馬は気づく。
――この人は、強い。
一葉は駆馬のほうをちらりと見た。
「さ、仕事を教えるわ。あなた、丁寧だから助かる」
その言葉が、また胸の奥に落ちた。
怒られなかった。
呆れられなかった。
避けられなかった。
ただ、必要とされた。
◇
一葉の『研究』に関わることになって、駆馬への周囲の見方が少し変わった。
『役立たず』でしかなかったはずが、いつの間にか『先輩に使われている』人材らしい、と。
直接話しかけてくる者はいない。
態度が急に優しくなるわけでもない。
ただ、視線の温度が変わった。
避けられるでもなく、嘲られるでもなく。
ただ“扱い方が分かった”というような距離感。
駆馬が何かをしたわけではない。
変わったのは、周囲の認識だけ。
——使われているなら、邪魔はできない。
そんな空気が、教室に静かに広がっていった。
◇
「助かるわ。がんばってね」
大量の試験管の入った箱をテーブルに置きながら、一葉が言う。
全部洗って、真空乾燥を掛けなくてはならない。
時間も手間もかかる作業だ。
だけど――
「わかりました」
駆馬は受け入れる。
終わりの会前の『なにをしていたらいいかわからない数分』に比べれば、試験管を洗い続ける数時間のほうが、ずっと楽だった。
誰にも見られず、誰にも邪魔されず。
ただ決められた作業をこなすだけ。
そのほうが、ずっと落ち着く。
駆馬は、そう思ってしまった。
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