第十四話 『退場』
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まどかが、少しだけ変わったのは、冬の終わり頃だった。
笑顔はいつも通りだった。
声も明るかった。
けれど、その明るさの奥に、どこか影のようなものが揺れていた。
授業中、ふと机に手をつく。
胸のあたりを押さえるような仕草が、一瞬だけ見えた。
「先生、最近疲れてね?」
「なんか休み多くね?」
そんな声が、廊下でひそひそと流れていた。
駆馬には関係のない話だった。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥が少しだけざわついた。
理由は分からなかった。
◇
まどかが駆馬に話しかける回数が、少しずつ減っていった。
「……あ、うん。じゃあ、これ後で見ておいてね」
以前なら、駆馬の机まで来ていたはずのプリントが、まどかの手から離れる前に、別の生徒へ渡されることが増えた。
駆馬は、それを“楽になった”と思おうとした。
けれど、胸の奥がひどく静かだった。
——どうしてだろう。
その問いは、言葉にならなかった。
◇
ある日、まどかの代わりに別の教師が授業をした。
「高瀬先生は体調不良でお休みです」
それだけ告げられ、授業は淡々と進んだ。
クラスはすぐに忘れた。
駆馬も、忘れたふりをした。
けれど、黒板の前に立つ人影が違うだけで、教室の空気がどこか落ち着かないように感じた。
◇
三月に入ると、まどかの机の上に書類が積まれ始めた。
「引き継ぎだってさ」
「やっぱ辞めるんじゃね?」
そんな声が、また雑音のように流れていく。
駆馬には意味がなかった。
けれど、胸の奥が少しだけ冷えた。
——また、何かが遠ざかっていく。
その感覚だけが、静かに積もっていった。
◇
発表は突然だった。
そして、あまりにも事務的だった。
黒板の端に、A5のプリントが一枚貼られていた。
【高瀬まどか先生は、事情により退職されました】
それだけ。
説明も、補足もなかった。
あとは、以前から代行をしていた教師がそのまま後任に入る。
それで、すべてが終わった。
◇
まどかがいなくなった翌週。
教室の空気は、何事もなかったかのように流れていた。
駆馬は席に座り、ただ前を見ていた。
黒板の文字が、いつもより遠く感じた。
まどかの席には、誰かの荷物が置かれていた。
そこに“昨日までいた人”の気配は、もうどこにもなかった。
背後で、誰かが笑いながら話していた。
「彼氏いたんだってさ」
「できちゃったらしいよ」
「そりゃ辞めるよなー」
「あ、だからだ。妙なのに構いたがるの」
「幸せボケってやつ?」
「それだ!」
駆馬の耳に、その言葉は届いた。
けれど、意味は届かなかった。
言葉は音として流れ込んでくるのに、意味だけが、どこかでこぼれ落ちていく。
ただ、胸の奥が少しだけ冷たくなった。
——また、いなくなった。
それだけが、駆馬の世界に残った。
まどかの声も、笑顔も、駆馬の中ではもう“過去”になっていた。
教室のざわめきは、今日も変わらず続いていた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
まどかのいない教室で、駆馬はただ座っていた。
何も変わらないはずだった。
何も変わらないはずなのに——
胸の奥が、落ち着かなかった。
——何か、しないと。
その“何か”が何なのか、駆馬には分からなかった。
けれど、じっとしていると、胸の奥がざわついた。
初めての感覚だった。
それは、意識しないまま、まどかの背を追いかけた視線の残響。
悪意にすらならない隔意を受け取るだけだった駆馬が、
自分で動いた、あの瞬間の記憶。
まどかの声に反応してしまった指先。
まどかの足音を追ってしまった視線。
閉じたノートの重さ。
どれも、駆馬が望んだものではなかった。
けれど、確かに“自分が動いた”記憶だった。
その記憶が、胸の奥で小さく疼いていた。
——何か、しないと。
理由は分からない。
分かりたくもない。
ただ、そのざわつきだけが、駆馬を静かに前へ押し出していた。
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