第十二話 『進級・優しさの刃』
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春になった。
制服の色が変わっても、世界は何も変わらなかった。
新しい教室。新しい机。新しい名簿。
けれど、駆馬の席だけは、やっぱり空白だった。
中学校の教室に入った瞬間、駆馬は気づいた。
——顔ぶれに大きな変化はなかった。
ほとんどエスカレーターの学校。
地域性も高い。
見たことのない顔が入り込む余地なんてない。
変わったのは、教師の顔だけだ。
……女性だった。
柔らかい声で「おはようございます」と言う。
教室の空気が、少しだけ明るくなる。
けれど、その明るさは駆馬の席まで届かなかった。
まるで、光が途中で折れてしまうように。
新しい担任が自己紹介を始めても、
駆馬の席だけは、相変わらず空白のままだった。
「クラス担任の高瀬まどか、です。よろしくね」
明るさと、優しさが目に見えるような若い女性教師があいさつした。
生徒全員の顔を確認しながら。
「っ」
駆馬は息を呑んだ。
何年ぶりだろう?
他人と視線が合ったのは。
他人の目が自分を見た。
それが、石を投げつけられたように『痛かった』。
「えっと……あなたが駆馬くん、で合ってるかな?」
高瀬まどかは、ためらいなく駆馬の席へ歩いてきた。
その歩みは軽く、迷いがなかった。
駆馬は、逃げ場を失ったように体を固くした。
視線をそらしたいのに、そらせなかった。
「よろしくね。これから一年間、いっしょに頑張ろう」
その言葉は、優しすぎた。
優しさが、刃物のように胸に刺さった。
——どうして。
——どうして、自分なんかを見たんだ。
駆馬は、答えられなかった。
声が出なかった。
まどかの背後では、珍獣を見るような視線が集まっていた。
彼女は、そのことに気づいていなかった。
これが、慣れ親しんだ地獄が、さらに一段深くなった瞬間だった。
◇
ときに、まどかは、駆馬の反応を優しさで包もうとしていた。
けれど、その背後で起きている空気の流れには気づかない。
「うん、大丈夫。ゆっくりでいいからね」
その声は本当に柔らかかった。
けれど、駆馬の耳には遠くから響くように聞こえた。
駆馬の胸が、わずかにざわついた。
呼ばれたことが、久しぶりすぎて。
だけど――
その分だけ、背後のざわめきが、皮膚の上を這うように伝わってくる。
“あいつ、なに?”
“なんで先生、あんなやつに話しかけてんの?”
そんな視線が、まどかの背中越しに突き刺さる。
まどかは笑っていた。
駆馬を安心させようとして。
その笑顔が、いちばん痛かった。
まどかの声が響くたび、教室の空気がわずかに冷えた。
◇
「駆馬くん、プリント……取りに来られる?」
ときに、まどかは、何の悪気もなく声をかけた。
他の生徒と同じように、当たり前の調子で。
駆馬は立ち上がれなかった。
足が床に縫い付けられたみたいに動かなかった。
立ち上がろうとした瞬間、足が震えた。
動かないのではなく、動けなかった。
「じゃあ、私が持っていくね」
まどかは笑って歩いてくる。
その背後で、クラスの空気がざわついた。
“まただよ”
“先生、あいつに構いすぎじゃね?”
数人の視線が、まどかではなく駆馬に向けられた。
責めるような、呆れるような目だった。
まどかは気づかない。
駆馬の机にプリントを置きながら、優しく言った。
「ゆっくりでいいからね」
その優しさが、駆馬にはいちばん痛かった。
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