第十一話 『地獄から地獄へ』
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遠くから、チャイムの音が聞こえてきた。
昼休みが終わる。
うしろ髪を、袖を、思い切り引かれつつ、駆馬は現実の教室へと戻らなくてはならない。
旧校舎の冷たい空気が、名残惜しく肌にまとわりつく。
ここだけは、時間がゆっくりで、呼吸がしやすかった。
廊下に出ると、現実の空気が一気に押し寄せてきた。
ざわめき。足音。笑い声。
どれも、駆馬の輪郭をすり抜けていく。
教室の前に立つと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
扉の向こうには、いつもの席。
いつもの視線のない空間。
いつもの“居ないもの”として扱われる時間。
駆馬は、静かに扉を開けた。
そこかしこで『輪』ができている。
その外周に弾かれるように、駆馬は歩いて行く。
まっすぐは進めなかった。
大きく弧を描いて、自分の席へ行く。
誰とも目が合わない。
声を掛けられることも、掛けることもない。
『無視』ではない。
無視されるには、存在を認知されていなければならない。
『見ている』のに『見ていない』とすることが無視。
そもそも『見ない』相手を無視はできない。
駆馬は『無視をしてももらえない』存在だった。
席に着いても、誰の視線も流れてこない。
駆馬が椅子を引く音だけが、教室の中でひときわ浮いていた。
まるで、そこだけ別の空気が流れているようだった。
同じ教室にいるのに、同じ時間を過ごしていない。
先生が入ってきても、状況は変わらない。
「席につけよー」という声が響く。
けれど、その声は駆馬の席を避けて通るように聞こえた。
駆馬は、ただ座っている。
そこにいるだけ。
誰にも触れられず、誰にも届かず、誰の世界にも入れないまま。
——ここが、現実の教室。
授業は続く。
先生の声が素通りする。
視線は交らない。
ノートと教科書をめくる音だけが、やけに大きく響いた。
それが、最後まで続く。
ページをめくるたびに、紙の擦れる音がひとりだけ浮いていた。
黒板にチョークが走る音も、どこか遠い。
先生の説明は、意味を持たないまま耳を通り抜けていく。
周りの子どもたちは、同じ方向を向き、同じ速度で時間を進めていた。
駆馬だけが、別の場所に取り残されているようだった。
存在しているのに、存在しない。
座っているのに、座っていない。
教室という空間の中で、駆馬だけが“時間の外側”にいた。
最後の授業。
終わりを知らせるチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一変した。
さっきまで止まっていた時間が、急に色を取り戻す。
椅子が引かれる音。笑い声。机を叩く音。
輪がいくつも生まれ、いくつも重なり、教室が一気に満ちていく。
駆馬だけが、動けなかった。
周りの子どもたちは、自然に集まり、自然に笑い、
自然に自分の居場所へ吸い寄せられていく。
その流れの中で、駆馬だけが取り残されていた。
誰も駆馬を見ない。
誰も駆馬の存在を必要としない。
誰も駆馬の席の近くを通らない。
まるで、そこに“空白”があるかのように。
旧校舎の静けさが、胸の奥でふっとよみがえった。
あの冷たさの中にだけ、確かにぬくもりがあった。
ここには、何もない。
——地獄から、地獄へ。
駆馬は、ただ座っていた。
周りは色づいていくのに、駆馬の周りだけが色を失っていく。
音も遠ざかった。
どれも、自分には関係ない。
あとは、終わりの会で『さようなら』を待つだけの時間だった。
浮つく雰囲気の中、駆馬の周りだけは静かだった。
教室のあちこちで輪ができ、笑い声が跳ねる。
机を寄せる音、走り回る足音、呼び合う声。
そのどれもが、駆馬の席を避けて流れていく。
駆馬は、ただ座っていた。
席を立つ理由も、立つ場所もない。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。
教室の喧騒の中で、そこだけ別の世界の音のように。
誰も駆馬を見ない。
誰も駆馬の存在を必要としない。
——この時間が、いちばん長い。
終わりの会が始まるまでの数分が、一時間よりも長く感じられた。
白黒映画の世界。音もない。
先生の口が『さようなら』と動く。
生徒たちが波のように廊下へ引いていく。
駆馬だけが残った。
立ち上がる音も、椅子が引かれる音も、
駆馬の世界には届かなかった。
ただ、映像だけが遠くで揺れている。
教室の色が、ゆっくりと抜けていく。
黒板も、机も、窓の外の光さえも、すべてが薄い灰色に沈んでいく。
立ち上がる理由も、立ち上がる力も、すぐには湧かなかった。
しばらくして、ようやく椅子の脚が床を擦る音がした。
それは、教室に残った最後の音だった。
廊下に出ても、誰もいない。
さっきまで満ちていた喧騒は、跡形もなく消えていた。
駆馬の足音だけが、薄い残響となって続いていく。
窓の外は明るいのに、胸の奥は重かった。
旧校舎の冷たい空気が、ふと恋しくなる。
あそこには、確かに“ぬくもり”があった。
家へ向かう廊下は、やけに長く感じられた。
どこにも寄り道できないまま、駆馬は、ただ前へ歩くしかなかった。
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