第八話 『学校』
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校門の前には、生活指導の先生が立っていた。
「おはようございます」と、明るい声が飛ぶ。
駆馬にも同じ声が向けられた。
けれど、それは誰にでも向ける“仕事の声”だった。
他の子どもには、「昨日の宿題どうだった?」「髪切ったね」と笑顔で話しかけている。
駆馬は軽く会釈して通り過ぎた。
先生の視線は、もう別の子に向けられていた。
◇
教室の前まで来ると、クラスメイトたちの声が廊下にあふれていた。
廊下から見る教室内には、いくつもの小さな輪ができていて、その中心だけが明るい。
駆馬が扉に手をかけた瞬間、胸の奥がひとつ脈打った。
開ければ、いつもの“あの瞬間”が来ると分かっていた。
扉を開けた。
一瞬、空気が止まった。
静寂が、肌に触れるほど冷たかった。
すぐに、元通りの喧騒が押し寄せてくる。
その音は、駆馬の胸を外側から押すように広がった。
駆馬は、各グループの外周に沿うように歩いた。
中心を横切る勇気はなかった。
誰も意地悪をしているわけではない。
ただ、そこに“居場所”がないだけだった。
窓際の一番後ろの席に腰を下ろす。
椅子がわずかに軋んだ音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、周囲の空白が音もなく広がった。
誰も近づかない。
誰も話しかけない。
誰も気にしない。
きれいな『空白』が、席の周りに詰まっていた。
触れれば割れてしまいそうな、薄い膜のような空白だった。
笑い声はすぐそばにあるのに、その世界は、駆馬の手の届かないところにあった。
距離ではなく、境界の問題だった。
『町の異物感』は置いてきたつもりだ。
だけど、『教室の異物感』は、ずっと『ここに』ある。
逃れられない暗さが、胸の奥で静かにわだかまっていた。
「じゃあ、席順で確認しまーす」
先生が廊下側の列から順に名前を読み上げていく。
男女で分けられた出席簿なんて、もう存在しない。
タブレット片手に、名前を呼んでは画面をタップするだけの作業。
明るい返事がいくつか続き、途中からは返事すら曖昧になっていった。
先生は、返事を待たない。
座っている姿を見れば、それで十分らしい。
最後の列、最後の席。
「……駆馬」
名前だけが、教室の空気に落ちた。
返事をする前に、先生はもうタブレットを閉じていた。
返事を必要とされていないことが、返事をするよりもずっと重かった。
声を出す元気はない。
だけど、名前を呼ばれるのは、駆馬が“ここにいる”と示される、ほぼ唯一の機会だった。
その唯一の瞬間でさえ、余韻もなく、ただ流されていった。
出席確認が終わると、教室にゆるい時間が流れ始めた。
友達同士の声が、また少しずつ膨らんでいく。
プリントを取りに行く子。
黒板の前でふざける子。
机を寄せて話し込む子。
駆馬には、することがなかった。
教科書を出すには早すぎて、
誰かに話しかけられることもない。
机の上の鉛筆を、ただ並べ直す。
その動作だけが、自分をここに繋ぎ止めていた。
視線が、窓の向こうへ逃げる。
窓際の席が、ありがたい瞬間だ。
教室内を見ないで済む。
窓に映る『教室内』は、半透明で、あやふやな“幻影”。
笑い声も、動きも、輪郭がぼやけている。
現実にあるのは——『何もない空』——だけだった。
そして――
そこに映るはずの『真実』は、どこにも見つからなかった。
チャイムが鳴った。
教室のざわめきが、ゆっくりと沈んでいく。
それでも、完全な静けさにはならない。
小さな笑い声や、机を引く音が、まだどこかに残っていた。
先生が教卓の前に立つ。
「はい、じゃあ一時間目、始めます」
その声が、遠くで響いているように聞こえた。
教室全体が、少しだけ薄い膜に包まれたみたいに感じる。
黒板に書かれる文字が、わずかに滲んで見えた。
眠いわけでも、目が悪いわけでもない。
ただ、意識がそこに焦点を合わせられない。
周囲の子どもたちは、自然に教科書を開いていく。
ページをめくる音が、やけに鮮明に耳に届いた。
駆馬も教科書を開いた。
けれど、文字は頭に入ってこない。
ただ、ページの白さだけが目に刺さる。
授業は、いつも通りに進んでいく。
駆馬だけが、その流れの外側にいた。
どこか、『言語が違う』そんな感覚。
見えている文字の意味が、急に遠くなる。
聞こえてくる言葉が、ただの音に変わっていく。
教室の空気だけが、淡々と動いていた。
自分だけが、その動きに取り残されている。
ただ、時計の音だけがハッキリと聞こえていた。
それは、『そこにいるだけでいい地獄』から、『何かをしなくてはならない地獄』へと
帰る時間が近づいていることを告げていた。
秒針が進むたびに、胸の奥の暗さが、ゆっくりと形を持ちはじめる。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




