第六話 『帰宅』
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店の奥で、母が時計をちらりと見た。
針は、朝の五時を指していた。
もうすぐ終わるはず。
なのに、母の表情には、終わりの気配がなかった。
外では壊れられない。
だから、家で壊れていく。
そのことが否応なく突きつけられる。
駆馬は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
それでも、終わりは来る。
母がバッグヤードに引っ込んだ。
夜勤シフトの終わりの時間だった。
夜明けが近い。
空が紫色。
オレンジの日差しが雲の向こうで待機している。
一日の始まり。
多くのサラリーマンが、学生が動き始める時間。
その中を、世の中に逆行するように。
社会から逃れるように。
母は背を丸めて家路につく。
その手には、敗れかけのレジ袋。
何度も使っては三角に畳んで持ち歩いている『買い物袋』だ。
それを両手で持っている。
中身は知っていた。
まず一つは、廃棄された『はず』の弁当だ。
本来、消費期限切れの廃棄弁当の持ち帰りは禁止されていると聞いている。
だけど、母の様子を見て同情しているのか、店長が黙認しているらしい。
らしいというのは、直接聞いたことがないからだ。
朝、テーブルの上に『廃棄シール』の貼られた弁当が置きっぱなしになっているのを何度も見たことがあるだけ。
母の、食事の大部分はこの『廃棄弁当』だ。
味気ないからか、罪悪感からか。
食べれば助かるのに、食べれば楽になるのに。
母は、まるで“自分には食べる資格がない”と言うように、箸を止めてしまう。
あまり多くは食べず、結局捨てられる。
そして、もう一方の袋は、『アルコール飲料』だ。
凹んだ缶、それがなければ、正規品を買っている。
眠るための酒。
忘れるための酒。
生き延びるための酒。
母にとって、唯一自分をさらけ出せる相手が、酒なのだ。
「ッ!」
駆馬は走った。
急いで帰らなくてはならない。
先回りして、『いつもの朝』を演じる。
駆馬は、部屋で寝ているのだ。
母の『外の顔』なんて見たことはない!
それが『真実』。
裏口から入り、自室に走り込む。
布団をかぶった。
部屋まで入ってくることなどないが、それでも一応の用心だ。
玄関の鍵が回る音がした。
そのあとに続くはずの「ただいま」は、今日もなかった。
靴を脱ぐ音が、やけに重い。
まるで、靴ではなく心を脱ぎ捨てているようだった。
そっとドアを開ける。
夜明けの光が玄関から入ってくる。
朝の光が、母の顔の隈をはっきりと浮かび上がらせた。
夜の暗さが隠してくれていたものが、すべて露わになる時間だった。
母が家に帰りつくのは六時過ぎ。
疲れているなら、寝てもいいところだ。
だけど、母は寝ない。
起きている。
「おはよう」と声をかけても、母は返事をしなかった。
怒る気力すら残っていないのだと分かった。
返事がないだけで、胸の奥がひやりとした。
怒鳴られるよりも、ずっと怖かった。
それでも、母は寝室に行かない。
台所の椅子に座り、テーブルに突っ伏している。
母は、突っ伏したまま動かなかった。
眠っているのではない。
ただ、動く理由を失っているだけだった。
寝れば楽になれるのに、母は寝ない。
寝てしまったら、母親であることを放り出してしまう気がするのだろう。
駆馬の登校を見守ってくれる。
「いってきます」への返事が、「役立たずの極潰し!」だったとしても。
それは、母がまだ『母親』を捨てていない証明。
母は、無理に笑おうとした。
口角だけが、ほんの少しだけ上がった。
それは笑顔ではなく、“母親であろうとする努力”の形だった。
その笑みは、笑顔の形をした傷口のようにも見えた。
朝の光は、母の弱さを隠してくれなかった。
夜の暗さだけが、母を守っていたのだと気づいた。
母の息には、酒の匂いがあった。
すでに、口にしていたのだ。
どこで飲んだのか。
それは、駆馬からも逃げようとする自分を留めようとした証拠だった。
少なくとも、駆馬はそう解釈している。
だから、駆馬は今日も、笑顔で「行ってきます!」を伝えて歩き出す。
その笑顔が、母を救っているのか。
それとも、母を追い詰めているのか。
駆馬には分からなかった。
駆馬は、いつもより少し大きな声で「行ってきます」と言った。
その声が、母をつなぎとめる糸になればいいと願いながら。
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