第四話 『ひび割れの音』
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母の顔色が悪くなる。
食事が粗末になっていった。
経済的な理由ではない。
気力の問題だった。
手の込んだものを作る意欲がなくなっている。
ハンバーグは手捏ねから、スーパーのセール品に変わった。
安さより、時間。
『おいしい』より、『栄養価』より、時間を惜しむ。
その結果が、免疫力を下げていく。
血圧が上がって、怒りっぽくなる。
ついには、カップラーメンを一個投げつけられるようになった。
——これではダメだ。
危機感を持った駆馬は、料理をし始めた。
でも、お金はない。
手に入れられるもの。
食べられるものを探し始める。
冷蔵庫の奥に残った野菜の切れ端。
賞味期限の近い豆腐。
安売りの卵。
それらを組み合わせて、どうにか“食事らしいもの”を作ろうとする。
できたモノは、『料理』とは言えない代物だ。
それでも、温かい。
お湯を注いだだけでもない。
電子レンジで“チン”しただけでもない。
機械の熱ではなく、子どもが手で作った“人間の温度”があった。
それでも、母は、食べない。
「あとで食べるから」と言って、手をつけない。
その“あとで”は、来ない。
夜になると、母は布団に沈み込む。
天井を見つめたまま、動かない。
「……母さん、大丈夫?」
声をかけても、返事はない。
ただ、呼吸だけがかすかに揺れている。
その呼吸が、ひどく弱く感じられた。
翌朝、母はまた咳き込んでいた。
台所の蛍光灯の下、肩が細かく震えている。
駆馬は思う。
——このままじゃ、母さんが壊れる。
でも、どうすればいいのかは分からない。
小学生の自分にできることは、限られている。
だから、できることだけをする。
料理を作る。
洗濯をする。
部屋を片づける。
母の負担を少しでも減らす。
一生懸命に背伸びをして、洗濯物を干す。
掃除機では音がうるさいから、必死に雑巾がけをする。
母が苛立った時、危なくないよう、ワレモノはしまった。
それでも、ひび割れの音は止まらない。
母の声が荒くなる。
物音が増える。
ため息が深くなる。
家の中の空気が、少しずつ、確実に重くなっていく。
駆馬は気づいていた。
母の中で何かが壊れ始めている。
そして、その音は——
家のどこにいても聞こえるほど大きくなっていた。
怒声も、罵声も。
駆馬の耳には聞こえなくなった。
それよりも大きな音がある。
より切実な音。
母が壊れていく音。
耳を塞ぎたい。
でも——
塞いだら、『終わる』。
そう思うと、塞げなかった。
もう一度何かを『聞こう』としたとき、『何も聞こえない』ことが怖かった。
怒鳴るのは、まだ元気だからだ。
少なくとも、『まだ』余力がある。
罵声が激しいのは、心がまだあるから。
何も感じていないなら、激しい言葉なんて出ない。
だから、怒声も罵声も、駆馬にはうれしかった。
沈黙より、よほどいい。
沈黙は、終わりの音だから。
母が壊れていく音が聞こえるうちは、まだ間に合う。
まだ、母は“ここ”にいる。
だから駆馬は、耳を塞がなかった。
塞げなかった。
母の痛みを受け止めるために。
母の心が完全に折れないように。
自分が“盾”になるしかなかった。
どんな風も、受け止められる盾に。
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