第三話 『盾になる』
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あの夜から、母と子の関係は少しずつ変わっていった。
母の感情の傾斜が変わったのだ。
駆馬を守ろうと、必死になっていた。
守るんだ。
愛する息子だ。
愛した人の忘れ形見。
そうして守ろうとすればするほど、崩れていく大切な場所。
生活するにはお金がいる。
働きに出て、少しでも稼ごうとすれば拘束時間が増える。
子供を守るための『仕事』。
そのはずなのに。
育てなきゃいけない。
愛をもって育むべき子供と会うことすらできない。
守ると言いながら、いつも家に一人で放置している。
会話がなくなっていく。
一緒に食事をしたのはいつのことだったか。
そういったことに気が付くたび、母はイラつき、落ち込む。
自分が何をしているのかわからなくなっているのだと、子供にもわかった。
家の中にも変化があった。
中心となる居間。
そこには、かつて額入りの写真が飾られていた。
壁に掛けられていた写真。
もう、どんな写真だったかも思い出せない。
わかるのは、『二人の人間』が写っていたことだけ。
きっと、笑顔だっただろうと思う。
その写真がなくなっていた。
壁には四角い白抜けがあるだけだ。
そこに“あったはずの幸せ”を証明していた。
なにかが『抜けている』と。
きっと、だからこそ、見るのが辛くなったのだ。
そして、それは写真だけではなくなる。
母は、最初は自分を責めていた。
「役立たずにならないようにね」
その言葉は、母自身に向けた刃だった。
でも、刃はいつしか向きを変える。
疲れが溜まり、眠れず、食べられず。
仕事で叱られ。
家に帰っても何も変わらない。
その行き場のない苦しみが、
少しずつ、少しずつ。
駆馬に向かっていく。
傾斜が、逆になっていった。
大切なのは『仕事』。
子供はその邪魔になる。
仕事をしていても、子供の暗い顔がちらついて集中できない。
仕事している場合ではないのではないか。
その疑問が、『子供は邪魔になる』へと変わっていく。
最初はため息。
次に無視。
次に苛立ち。
そして——言葉。
「なんであんたは……」
「どうして生まれてきたの……」
「私の人生、返してよ……」
母は泣きながら言う。
言ったあとで、もっと泣く。
自分を責めて、責めて、責め続ける。
駆馬は、ただ受け止める。
怒らない。
泣かない。
反論しない。
母が壊れないように。
母の心が完全に折れないように。
自分が“盾”になるしかなかった。
家ではサンドバッグ。
学校では透明人間。
どちらにも居場所はない。
でも、駆馬は生きる。
なぜなら——
母は自分を捨てなかったから。
それだけで、十分だった。
母親の罵倒。
表面は駆馬を否定するものだ。
だけど、子供は『言葉』よりも、その『温度』に敏感だ。
言葉の内容は聞き流せた。
駆馬を必要としている『寒々しさ』は無視できない。
母は駆馬を必要としていた。
『生きる』ために。
自分一人なら、最悪の決断もあり得る中。
生にしがみついていられるのは、駆馬がいるからだ。
いっそ、『守ろう』としなければ楽だっただろう。
守りたいのに守れないから辛い。
辛いから、当たってしまう。
当たってしまう自分が憎い。
自分への憎しみが、駆馬に向く。
ループが、ループする。
救いがないまま、黒く重い物だけが積み重なる。
それが、子供にも——いや、子供だから、わかる。
駆馬は、逃げられなかった。
母は自分を必要としているし、自分にも母が必要だったから。
駆馬も変わらざるを得なかった。
母の変化に対応するために。
それは、成長でもあった。
なにもわからない。
『家』だけが世界のすべてだった子供は、少しずつ『外』を知っていく。
学校。
テレビ。
ネット。
本。
情報ツールが、『外』を教えてくれる。
社会の無関心。
現実の惨酷。
周囲の隔意。
子供には難しいこと。
理解し辛いこと。
だけど、『わからないまま』にはできないこと。
そして気付く。
自分たちは世界に混じれないのではない。
交わることを拒まれているのだ、と。
『誰か』が。
『何か』が。
自分たちと世間の間に、見えない『壁』を作っている。
自分のことで手一杯の人たち。
社会よりも個人が優先される時代。
だから、誰の利益にもならない親子は取り残される。
駆馬は、ゆっくりと理解していった。
母が壊れていくのは、母が弱いからではない。
世界が、母と自分を“見ないふり”をしているからだ。
そして——
その世界の冷たさから母を守れるのは、自分しかいない。
だから駆馬は、盾になった。
壊れられる母と、壊れることができない子。
二つの影が、同じ夜を、同じ姿勢で過ごしていた。
静寂が、ゆっくりと形を変えていく。
風は、向きを変えようとしていた。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




