第二話 『母と子』
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朝。
目覚ましが鳴る前に、カルマは目を開けた。
名前を呼ばれたわけでもないのに、胸の奥が少しだけ重い。
理由は分からない。
でも、ずっと昔からそうだった。
——名前って、なんでこんなに重いんだろう。
まるで、誰かの手の跡が残っているみたいだ。
自分以外の誰かの痕跡。
それが、こんなに重い。
コホっ……
隣の部屋から、母が咳き込む音が聞こえた。
薄い壁は、抑えた咳すら隠してくれない。
わずかに、アルコール臭が漂っている。
臭いも、隔ててはくれないのだ。
だから、駆馬はゆっくりと体を起こした。
気配を消して。
夜が明けたばかり、窓の外には隣家がある。
薄闇に沈む台所に、母が立っていた。
台所の蛍光灯は半分切れていて、白い光がじりじりと瞬いている。
母は流しに手をつき、ゆっくりと息を吐いていた。
「……おはよ」
声をかけると、母は振り返る。
笑っている。
でも、その笑顔は“形だけ”だと、小学生のオレでもわかった。
「駆馬、牛乳あるよ。飲みな」
母はそう言って、冷蔵庫を開ける。
中には、安売りのパックがひとつだけ。
母は飲まない。
いつもそうだ。
テーブルの上には、昨日の夜に作ったおにぎりが二つ。
ひとつはオレの。
もうひとつは、母がパートに持っていく分。
「母さんは?」
「いいの。職場で食べるから」
でも、母が食べているところを、オレは一度も見たことがない。
ランドセルを背負うと、母はいつものように言う。
「……役立たずにならないようにね」
叱っているわけじゃない。
ただ、自分に言い聞かせるように。
その言葉が、オレの胸に沈んでいく。
家を出ると、朝の空気が冷たい。
校門までの道は、いつも静かだ。
友達と歩いたことは、一度もない。
学校に着くと、昇降口のざわめきが耳に入る。
でも、そのざわめきはオレを避けて流れていく。
まるで、川の流れの中に置かれた石みたいに。
「……おはよう」
誰に向けたわけでもなく、つぶやく。
返事はない。
いつものことだ。
教室に入ると、席はちゃんとある。
でも、誰もオレの机に触れない。
落書きもされない。
悪口も書かれない。
ただ、“何もない”。
それが一番、きつかった。
授業が始まると、担任が名簿を開く。
「……佐藤、鈴木、田中……」
オレの名前は、呼ばれない。
忘れているわけじゃない。
呼ばなくても困らないからだ。
オレは手を挙げない。
挙げても、意味がないことを知っている。
休み時間、みんなが校庭に走っていく。
オレは教室に残る。
窓の外を眺める。
母の震える肩を思い出す。
放課後、家に帰ると、部屋は静かだ。
母はまだ帰っていない。
テーブルの上に、メモが置いてある。
『ごめんね。今日も遅い』
その字は、少し震えていた。
オレは宿題をする。
終わったら、洗濯物を取り込む。
夕飯を温める。
母の分はラップをかけて冷蔵庫へ。
夜遅く、玄関の鍵が回る音がする。
母が帰ってきた。
「ただいま……」
声がかすれている。
オレは立ち上がる。
「おかえり」
母は笑う。
その笑顔は、朝よりもっと薄かった。
「カルマは……いい子だね」
その言葉だけが、オレの救いだった。
たとえ、それが母自身を責めるための言葉でも。
オレは知っていた。
母が壊れていく音を、毎日聞いていた。
でも、母を憎むことはできなかった。
だって、母はオレを捨てなかったから。
ただ、それだけで十分だった。
誰もいない。
母の両親は早くに亡くなっていたらしい。
兄妹もいない。
親族とも縁が薄いだろうことがわかる。
父方の親族は……駆馬のことを血縁とは認めていない。
天蓋孤独で、子供を育てることが、どんなものか。
小学生にはわからない。
だけど、大変なのだとは感じられた。
テレビのニュースで、子供を死なせる母親のことが報じられるたびに思う。
母は、駆馬を捨てなかった。
ちゃんと育ててくれている。
ただ——
母は疲れていた。
休む間もなく追いつめられて。
ある夜、喉が渇いて台所に行った。
冷蔵庫の明かりの中で、母が膝を抱えていた。
声は出さず、肩だけが震えていた。
その姿は、誰にも助けられなかった人間の、最後の形だった。
冷蔵庫の明かりが消えたあとも、母の震えは止まらなかった。
ゆっくりと後ろに下がって、部屋に戻る。
床に座り込んで、膝を抱えた。
さっき見た、母の姿そのもの。
でも、——
大丈夫。
駆馬は、壊れない。
そこまで、『繊細』ではなかった。
冷たさにも。
苦しみにも。
鈍感でいられた。
その夜、母は眠れなかったのか、何度も咳き込んでいた。
壁越しに聞こえるその音が、なぜかいつもより遠く感じた。
壊れられる母と。
壊れることができない子。
二つの影が、同じ姿勢で、夜を過ごしていた。
その外で、風がどこかへ吹き過ぎている。
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