第一話 『追憶』
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体育館の裏手にある古い桜の木は、春になると、いつも風より先に花びらを落とした。
あの日もそうだった。
まだ夕暮れの色が残る校庭で、私は制服のまま、彼を待っている。
胸の奥が、理由もなくふわふわしていた。
「ごめん、待った?」
息を切らしながら駆けてくる彼は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
でも、笑うとすぐに、私の知っている“彼”に戻る。
「ほら、これ。今日の分」
そう言って差し出されたのは、購買で買ったばかりの温かいココア。
缶の表面が、まだほんのり熱い。
「甘いの好きだろ?」
その一言が、胸の奥にすっと染み込んだ。
風が吹いた。
桜の花びらが、二人の間をふわりと横切る。
その瞬間、彼が私の手をそっと握った。
「……ずっと一緒にいたいな」
その言葉は、春の匂いと混ざって、私の世界を静かに変えていった。
彼の手は温かくて、その温度だけで、未来が明るく見えた。
あのときの私は、自分がどれほど幸せだったのか、まだ知らなかった。
ただ、彼と並んで歩く帰り道が、世界で一番好きな時間だった。
―――あれが、私の人生でいちばん“普通の幸せ”だった。
体育館裏の壁に背を預けると、夜の冷たい空気が、酔いの熱を少しだけ奪っていった。
缶チューハイの甘い匂いが、風に流されていく。
その匂いに混じって、ふいに——
もっと甘い、もっと懐かしい香りが胸の奥をかすめた。
……ココアの匂い。
気づいたときには、もう思い出していた。
夕暮れの校庭。
制服のまま、息を切らして駆けてきた彼。
缶の表面がまだ温かい、あのココア。
「甘いの好きだろ?」
その声が、今も耳の奥に残っている。
手を握られたときの温度まで、思い出せる。
あの頃の私は、未来なんて怖くなかった。
彼と並んで歩く帰り道が、世界の全部だった。
——どうして、あんな大事なことを忘れていたんだろう。
缶を持つ手が震えた。
酔いのせいじゃない。
胸の奥が、急に痛くなっただけ。
「……子供ができてるの」
あのときの自分の声が、夜の空気の中で静かに響く。
彼が笑った顔。
嬉しそうに、何度も何度も「やった」と言った声。
あの瞬間だけは、本当に未来が明るかった。
私は壁に額をつけた。
冷たさが、記憶の熱を少しだけ落ち着かせる。
——あれが、私の人生でいちばん幸せだった。
その幸せの続きが、今どこにあるのかは、もう分からない。
ただひとつだけ確かなのは、あのときお腹の中にいた子が、今もどこかで生きているということ。
駆馬。
あなたは、あの瞬間の“光”から生まれた子なんだよ
「……ふふっ」
不意に笑いが込み上げた。
酔いのせいではない。
胸の奥に、あの頃の温度がふっと戻ってきただけ。
『どこか』ではない。
今も一緒に暮らしている。
毎朝、眠そうな顔で起きてくる。
小さな背中で、精一杯に学校へ向かう。
私の機嫌をうかがうように、そっと食器を片づける。
あの子は、ちゃんと“ここ”にいる。
『どこか』に行ってしまったのは——
あの子じゃない。
……あの人だ。
そして――『あの頃の』、私だ。
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
風が吹いて、缶の中の氷がかすかに揺れた。
その音が、やけに寂しく響いた。
体育館裏。
風は止まり、空気は静かだった。
壁に背を預けたまま、缶を握る手に力が入る。
酔いが回ると、どうしてか——
忘れたはずの光景が、勝手に浮かび上がってくる。
まただ。
また、あの頃の記憶が滲み出してくる。
今度の記憶は、制服姿の二人。
私と、あの人。
さっき思い出した頃より、少しだけ大人びている。
そして、あのときの私たちの顔には、確かに“決意”があった。
彼は、少し照れくさそうに笑っていた。
でも、その目はどこか遠くを見ていた。
未来を見ていた。
「生まれてくる子のためにも、お金は必要だからね」
心配するなよ、と言うように、優しい声で私を励ましてくれた。
「今回のバイトが終われば、しばらくはお金に困らないはずだよ」
私は制服の上から、お腹をそっと押さえた。
その手は、少し震えていた。
でも、顔は笑っていた。
「……うん。がんばってね」
「帰ってきたら、名前、一緒に考えようね」
彼は笑った。
そして、私の頭をそっと撫でた。
その仕草が好きだった。
あのときの風の匂いまで、今も思い出せる。
私は笑っていた。
でも、あのときの私は、不安でいっぱいだった。
それでも、精いっぱいの笑顔を作った。
記憶の中の彼が、先に消える。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
あのときの胸の痛みまで、今も鮮明だ。
現実の私は、静かに座り込んだ。
壁に寄りかかり、夜空を見上げる。
涙が一筋、頬を伝った。
酔いのせいじゃない。
ただ、思い出してしまっただけ。
あれは、別れの記憶。
希望と不安が入り混じった、あの瞬間。
そして——
帰ってこなかった人の記憶。
胸の奥が、またひとつ沈んだ。
「……駆馬」
その名を口にした瞬間、
体のどこかがきゅっと縮む。
『あの人』の遺品に残っていた、
たった一つ判読できた名前。
あの日、二人で決めた“約束の名前”。
あの日の自分への裏切り。
そして——息子を追いつめた失格者としての罪。
息子は今、学校が決めた“危険な役割”に向かっている。
そうしなければならなくしたのは母親である自分。
守れなかった。
守ろうとすらしなかったかもしれない。
不甲斐ないのは、いつだって私だった。
自分の罪を数えながら、私は目を閉じた。
体温が、ゆっくりと下がっていく。
駆馬。
それは、彼が最後に残した言葉。
守れなかった命の名前。
そして今——
その名前を背負って生きている子がいる。
カルマ。
あなたは、あの瞬間の“光”から生まれた子なんだよ。
でもねー―
光の当たった先には、影ができるんだね。
空を見上げる女の髪が、わずかに風に揺れた。
その揺れは、あの日の春の匂いをほんの少しだけ思い出させた。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




