第22話:マリナ
防音施錠された個室には、ギルドの喧騒も届かない静寂が満ちていた。
長枠の木製テーブルを挟み、イムとマリナは対面するように腰を下ろす。
静寂を破り、先に口を開いたのはマリナだった。
「まずはお時間をいただき、ありがとうございます」
「おう、全然大丈夫だけどよ。話ってなんだよマリナさん。昨日のことか?」
気易く問いかけるイムに、マリナは静かに頷く。
「ええ、昨日の件の進展……ならびに後処理についてです。警備隊からの報告に基づき、件の五名には厳罰が下されます。ですが……今回の件に関して、彼らへ処分を下す以外、ギルドとして何か補填や支援を行うことはありません」
「ん? どういうことだ?」
「彼らが探索者であり、被害者が一般市民であった場合、ギルドが補償金や手当を出すこともあります。ですが……イムさんは現役の探索者です。探索者間の私闘およびトラブルに対し、ギルドは原則『不干渉』を貫く……それが規定の方針となっております」
淡々と規定を説明するマリナの表情は、どこか痛々しいほど硬く、険しかった。
見ているこちらまで胸が痛くなりそうなその顔に、イムは努めて明るい声を作って笑いかけた。
「そっか! まぁ、あいつらがしっかりお仕置きされるなら俺はそれで十分だぜ! 教えてくれてありがとな、マリナさん!」
白い歯を見せるイムに対し、マリナは一瞬だけ息を呑み、胸の前に置いた手をぎゅっと握りしめた。そして、イムの耳には届かないような微かな小声で呟いた。
「っ……あなたという方は、いつも……」
「ん? どうかしたか?」
「……いえ。それで、イムさん。これからお話しすることは、ギルドの受付としてではなく、すべて『私個人』からの言葉としてお聞きいただけますでしょうか」
「? よく分かんねぇけど……おう、分かった!」
イムの了承を確認すると、マリナはすっと椅子から立ち上がった。
そして、綺麗な背筋を正したまま、イムに向かって深々と九十度に頭を下げた。
「この度は……大変ご迷惑をおかけし、真に申し訳ございませんでした」
「!? ま、マリナさん!? なんでマリナさんが頭下げてんだよ!?」
突然の深謝に驚き、慌てて立ち上がろうとするイム。だが、頭を下げた姿勢のまま、マリナは静かに言葉を続けた。
「……私は、最初……あなたのことを見下していました」
「っ……!」
意図せぬ一言に、イムの動きがピタリと止まる。
「見るからに貧しい出で、学もなく、どうせ探索者など長く続けられるはずがないと……勝手に決めつけ、受付として不誠実極まりない態度をとっていました」
「……」
「ですが、あなたはそんな私の浅はかな偏見など吹き飛ばすかのように、真摯に、そして目覚ましい成果を挙げ続けてこられました。その姿を見るにつけ、私の胸には日に日に後悔と不甲斐なさが募っていったのです……」
頭を下げたままの彼女の声が、微かに震える。
「そして今回の出来事です。もし私が最初から適切に案内し、あなたがパーティを組んで探索に向かえるよう導いていれば……このような危険な目には遭わずに済んだかもしれない……」
「……」
「イムさん、改めて謝罪させてください。この度は……いえ、これまでの非礼の数々、大変申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げ続けるマリナ。
防音室の中に、十数秒間の重苦しい沈黙が降りた。
「……顔を上げてよ、マリナさん」
「……」
「いいから、顔上げてってば」
一度促しても微動だにしないマリナへ、イムは少し苦笑いを交えてもう一度声をかけた。
そこでようやく、マリナは意を決したようにゆっくりと顔を上げた。その瞳には、隠しきれない葛藤と罪悪感が滲んでいる。
イムはそんな彼女の顔を直視しながら、柔らかい笑みを浮かべた。
「俺の話も、聞いてほしいんだけどさ。いいか?」
「……はい」
「ありがと。まず第一にさ……俺、マリナさんに思うところなんて『これっぽっち』もないぜ?」
「……え?」
「そりゃ、最初の頃の冷たい態度には気づいてたさ。でもな、俺からすると、あれって普通……いや、全然良い方だったんだよな」
「っ!?」
そのイムの言葉に、マリナは目を見開いた。
「マリナさんも知っての通り、俺、あの頃は毎日風呂に入ることもできなかったし、服だって継ぎ接ぎだらけのボロしか持ってなかった。そんな身なりの孤児だからさ……街じゃ、まともに口をきいてくれる人の方が少なかったんだぜ?」
悲壮感など欠片もなく、事も無げに語るイム。聞き入るマリナは、胸を締め付けられる思いで下唇を強く噛みしめた。イムは彼女のその表情に気づかず、あるいは気づかないフリをして言葉を繋ぐ。
「でもマリナさんはさ、俺の格好を見てもちゃんと対等に話をしてくれただろ? 受付だって他の人に押し付けたりしないで、最後まで仕事として対応してくれたじゃんか」
「それは……私がギルドの受付として、仕事だったからです……!」
「仕事でも、だよ。場所によっては、買い物どころか店の敷地に足を踏み入れただけで追い払われてた俺だぜ? ギルドに入った時だって、トラブルの一つや二つは覚悟してたさ。でも蓋を開けてみれば、マリナさんがしっかりと対応してくれたおかげで……俺、今はこんなに綺麗な服を着られてるんだぜ?」
そう言ってイムは、古着屋で買い、今日も着ている綺麗な服の袖口をポンと叩いて見せた。
「それはっ! イムさんが……ご自身で血のにじむような努力をされたからで……!」
「そう! 俺が頑張った成果でもある! ……でもな、これが俺一人の力じゃないってことも、俺はちゃんと分かってるんだ」
イムは頭の後ろに手をやり、ははっと照れくさそうに笑った。
「あー、なんか話がちょっとズレちゃったな。まぁとにかく! 俺はマリナさんにも助けられてるってことを理解してくれたらそれでいいや。それとさ……さっき『パーティを組めていたら』とか言ってたけど、俺は元々一人でやるつもりだったんだ。マリナさんが責任を感じる理由なんて、本当にゼロなんだよ!」
屈託のない、いつもの堂々とした不敵な笑顔。
マリナは絶句し、言葉を失っていた。自分が勝手に抱えていた罪悪感や身勝手な後悔を、独りよがりな謝罪を、この小柄な少年はあっさりと受け入れて、けれど温かい言葉で包み込んで消し去ってしまったのだ。
「だからさ! これからも受付、頼むな!」
そう言って、イムは真っ直ぐに右手を差し出した。
マリナは溢れそうになる感情をグッと堪え、少年の差し出された手を見つめた後、もう一度静かに頭を下げた。
「……寛大なお心に、心より感謝いたします。こんな私でよろしければ……こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
差しのべられた小さくも力強い手を、マリナは両手でしっかりと握り返した。
「あー……ついでだから、もう一つお願いしていいか?」
「私にできることでしたら、何なりと」
握手を交わしたまま、イムはもう片方の手で後頭部をガシガシと掻きながら、心底困ったような顔を作ってみせた。
「その……『イムさん』っての、やめてくれないか? マリナさん、俺より年上でしょ? 年上の綺麗なお姉さんに『さん』付けで呼ばれるの、なんかむず痒いんだよね」
「……え?」
予想外すぎる要求に、マリナは一瞬ぽかんと口を開けた。
そして――数秒の後、彼女の固く引き締まっていた表情が瞬く間に解け、今日初めての、花が咲くような美しい笑顔が弾けた。
「ふふっ……分かりました」
「……あ、ついでに敬語も禁止で!」
防音室の静寂は去り、二人を繋ぐ空気はどこまでも澄み渡っていた。
こうして、少年探索者と受付嬢の間にあった見えない壁は完全に崩れ去っていった。




