第19話:出発前夜の魯肉飯と、聖母の晩酌
台北の裏路地。李家食堂の赤提灯が揺れている。
八角と醤油の甘い匂いが、夜風に混じっていた。
◆ ◆ ◆
日本への潜入ルートが確保され、出立は明日に迫った。
過酷な敵地へ向かう前に、済ませておくべきことがある。
俺は小梅と共に、この小さな大衆食堂を訪れていた。
◆ ◆ ◆
「ほら、今日は特別に肉を多めにしておいたわよ」
蘭が湯気を立てる魯肉飯を、優しくテーブルに置く。
「……ありがとうございます。しばらく、来られないので」
俺が静かに告げると、蘭の動きが少しだけ止まった。
小梅も無言のまま、自分のグラスを見つめている。
だが蘭は、余計な事情を一切聞かずにふわりと微笑んだ。
「いつでも帰ってきなさい。ここはあなたの家なんだから」
俺の頭を撫でる彼女の手は、どこまでも温かかった。
血と泥にまみれた心を洗う、無条件の聖域だ。
「志郎おじさん! わたしがいなくて寂しいでしょ?」
小飛が隣に座り込み、無邪気なウインクを返す。
「日本でも、裏回線からバッチリ手伝ってあげるからね!」
「……お手柔らかに頼む。」
「おじさんがいなくなったら、お姉ちゃん寂しくなるね」
「……馬鹿なこといってないで、早く食べなさい」
小梅が顔を背け、冷めたお茶をすする。
だが、その氷の瞳の奥には密かな決意が宿っていた。
ありふれた家族の食卓。平和で、騒がしくて、温かい時間。
過去の亡霊だった俺に、未来を守る確かな熱が宿る。
◆ ◆ ◆
深夜の李家食堂。赤提灯の明かりはすでに落ちている。
外では、冷たい夜雨がアスファルトを叩いていた。
小梅や小飛が寝静まった後、俺は一人で店に下りてきた。
眠れなかったのではない。心が擦り切れていたのだ。
暗いカウンター席で、一人静かに息を吐き出す。
「……こんな時間に、悪い子ね」
ふわりと、甘い香水と八角の匂いが漂ってきた。
見ると、寝巻きに薄手の羽織をまとった蘭が立っていた。
右目の下の泣きぼくろが、艶やかな大人の色気を放っている。
「……すみません。少し、冷たい水が飲みたくて」
俺が誤魔化すと、蘭は小さなグラスを二つ並べた。
トクトクと、度数の高い琥珀色の酒が注がれる。
「冷たい水より、こっちのほうがよく眠れるわよ」
蘭は隣に座り、自分のグラスを軽く合わせた。
彼女は、俺がこれから死地へ向かう事情を一切聞かない。
ただ、疲れた男の孤独を察している。
「……あんたは、本当に不器用ね」
「背負わなくていいものまで、全部抱え込もうとする」
蘭はそっと俺の頭を引き寄せ、自分の膝の上に乗せた。
「なっ……! 蘭さん、これは……っ」
「いいの。今はただ、ゆっくり休みなさい」
豊満な太ももの柔らかさと、圧倒的な母性の温もり。
抗う気力もなく、俺は彼女の膝に身を委ねた。
髪を撫でる蘭の手は、凍りついた魂を溶かすように優しい。
未来の知識も、血にまみれた復讐も関係ない。
俺が、唯一背伸びせずに甘えられる究極の聖域。
「……ありがとうございます。…………すごく、温かい」
「ふふっ。いつでも帰ってきなさい。ここはあんたの家よ」
雨音を遠くに聞きながら、俺は静かに目を閉じた。
明日から再び始まる、血と泥の地獄を歩き抜くために。
最愛の彼女の破滅まで、あと983日。
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