第二章『走って走ってぶつかっても走って』
逃げた。逃げた。あぁ逃げ出したのか。俺。今走ってるのは俺か。走ってどこに行く。どこでもいい。できるだけ離れたい。遠く離れた先が自宅でありたい。停留所まで結構あるな。よかった。もし走って数分で着くくらいなら飛び降りてもよかったけど。だめだ、あぁ、没頭したい。この走りに。何もかも拭い捨てて、足で地面を蹴ることだけに集中したい。誰かの声がする。学生何人か帰ってる人やぶらぶら歩いてる人がなにか話している。笑う人もいた。汚い言葉を呟いてる人も、逆に話してない人もいた。なんでだ。俺が走ってるからか。走ったっていいじゃないか。走りたい気分だったんだ。というか、走りたいくらいなら案内なんてしなければよかった。案内せずに走ればよかった。断ればよかった。いつも通り無理と言えばよかった。龍馬にさえ目をつけなければ絶対俺は断ってた。別にそれでよかったのに、断られた相手の気持ちを気にする自分を見てみたくなった。無駄な足掻きだった。それが裏手に出るのはいつものことなのに。期待した分、見て見ぬふりをした現実が跳ね返って、自分をまた嫌いになるのはわかっていたのに。じゃあ期待しなかったら、想像しなかったらこんなことにはならなかったのか?いや、そんなのできない。やらなきゃいけないことがあった。できるだけ早く。今日やらなきゃいけなかったことが。じゃあこうなるのは必然?確定された未来なのか?この愚行がやがて学校中を巡り、俺が独りになるのが。この行動が間違ったとは思えない。情けないとも思うし、気持ち悪いとも思うけど、『霧生孝一』という人生を送ったら、きっとみんなこの行動をするんだ。だからこの行動は正しい。逆に、なぜ間違ったと否定できる。走ることの、何が悪いのだ。二つの足に力を入れて、素早く移動することのなにがおかしい。遅刻するから走るというしょうもない場面でも、体力作りや健康体にするという場面でも使うというのに。それに、走りを夢とするものもいるのだ。夢の途中にも走りが必要なものは星の数ほどあるはずだ。走りが奇妙な行動に見えるのなら、それは生物を対象としていない。だからこの行動は正しい。そして正しい行動の先が運命なのだとしたら、俺はこのまま独りになるのも受け止めるしかないのだ。
なんだ、なんだ、独りになるのが俺は恐れていたのか?あんなに孤独を恋しかったのに、今日だって何度も思ったはずだ。今日に限らず、十数年ずっと思ってたのに。独りになりたくなかったのか?
でも、もうそれも考える必要はない。なんせ、俺は独りになるのが運命なのだから。
「うっ……あ」
「ぇ……ぁ……すみませっ」
やばい。ぶつかった。誰かにぶつかってしまった。同じ制服に俺とは違く赤いリボンを結んでいる。同じ学年じゃない。後輩だ。
「た、立てます……かぁ」
手を差し伸べる前に、自分も倒れた。倒れるよりかは昏倒したの方が正しいかもしれない。世界が回っている。ループしている。ぶつかった彼女も回っている。
そして、俺の痴態ももうじき教室中を。
「あのっ、!聞こえてますか?」
「……き、聞こえて、ます」
立とうとする俺に、その彼女は「あっ、そのまま横たってくださいっ!ひ、ひどい、汗です、!」と言われたので、そのまま背中を地に着く。
息が荒い。呼吸が苦しい。どこだここは。うえをむけ。仰向けに。じゃないと空気が入らない。
「同じ制服……先輩っ、ですか?」
しつこく話しかけてくるこいつを見上げる。肩にかからない、風に乗って綺麗に靡いている髪に、白肌でとても小顔だ。立ってなくてもわかるほどに背丈は小さくて、手も小さかった。
「あのっ、なんでマスクつけてるのですか?外した、ほうが、」
マスク?はっ、まじか俺。マスクつけながら走ってたのか。
「ごめん……きに、しないで」
マスクを外して、彼女から渡されたハンカチで顔を拭く。再び目を合わせると、彼女は目を丸くし、唇がどこか震えているように見えた。
「——こういちさん、ですか?」
「……ぇ?」
胃から何かが登ってきた。急いで手で塞いで飲み込む。また額から変な汗が垂れ、それをハンカチで拭く。
「おれの、なまえ、?」
「あっ、あたり、まえじゃないですか、」
やめてくれ。せっかく、独りになれると思ったのに。今この状況さえ理解しきれてないんだ。頭が痛くて、早くベッドに転びたいのに。さらに見覚えのない不思議な後輩とか。処理しきれない。
「あったこと、は、」
「た、たまにっ、廊下で」
すれ違ったとか?すまんが、それは覚えきれない。
「お兄ちゃん、と、友達、ですもんね?」
「お兄ちゃん?君の、名前は?」
だんだんと、息が戻ってくる。
「西蓮寺、なる、ですっ」
西蓮寺……。あ、龍馬の、妹か?
これは自分で考えてもとても気色の悪いことだから、あえて第三者として語らせてもらうけど、どうやら数ヶ月、半年前くらいに、霧生孝一のことを気になっている女性がいるというのを小耳に挟んだことがある。
その話がどこまで広がったか、なんで広まることになったかはわからないが、一番理解できないのが霧生孝一のことを異性としてみる人間がいたことだ。
否、逆なのかもしれない。
何もわからないのではない。理解できないから広まったのだろう。その人は小柄で可愛げのある人で、とても霧生孝一には身の丈に合わない人だという。
もしかして、この人なのか。龍馬の妹が、俺の唯一の。
「……ま、まって、ここは、?」
「え?」
「学校から、どのくらいだ?停留所まで、どの、くらい、」
「えっと、どうっ、でしょう。ちょうど半分くらい、」
っざけてる。
「うぁ!?ちゃっ、ちょっ、!」
ここに留まったのが数分。もしひろみが走ってきてるのなら、遠目で見れば視認できるほどの距離。
合わせる顔がない。話せる言葉が見つからない。出せる声のトーンが想像つかない。
「すまん……少し、走ってくれ。停留所まで。紙飛行機に乗って、少し経ったら、あとは好きにしていいから」
目的地まで来たら好きにしていい。だから、今は俺の好きにしてほしい。それに、こいつは俺のことを想っている可能性がある。確定事項でないものを計算に入れるのはどうも好きではないが、当てはまると無理やりはみこめて、それがこの行動の潤滑剤になるのなら。
「大丈夫か?いけるか?」
振り返らない。振り返る余裕も、自信もない。
「……はい」
声のトーンがどこか一段低く感じた。それが悍ましく身を震わせる波長で、疲れたから低くなったなどという屁理屈で埋める他なにもないと落とし込むしかなかった。
二人は言葉を交わさずに、息を荒くしながら向かった。
小さく二人が走っているのを、誰かの瞳にしっかり入り切っているのを知らずに。
あぁ、今日はほんとに晴れてる。




