朝一番、王都からパンが消えた
朝一番、王都からパンが消えた。
俺はどんよりと重い気分を引きずりながら、王都の裏通りにある行きつけのパン屋へと向かっていた。
神聖宮殿で出される豪華な朝食は胃にもたれる。それに、昨日判明したあの『失敗確率 1.2%』という絶望的な数字のおかげで、もはや高級な食事の味すら感じられなくなっていたからだ。
庶民的な塩パンでもかじって、気を紛らわせたかった。
「……あれ?」
パン屋の前に着くと、なにやら人だかりができていて、ただならぬ空気が漂っていた。
恰幅の良い店主のおやじさんが、真っ青な顔をして店の前でへたり込んでいる。周囲には常連客たちが集まり、ひそひそと不安げな声を交わしていた。
「おいおい、どうしたんだ? 店の棚が空っぽじゃないか」
「それが……焼けたそばから、パンが消えちまうんだよ!!」
おやじさんが半泣きで叫んだ。
「オーブンから出して、トレーに並べた瞬間に『スッ』って! まるで幽霊にでも食われたみたいに、綺麗さっぱり消えちまうんだ!」
「そんな馬鹿な。不可視の泥棒か? それとも転移魔法……」
その言葉を聞いて、俺の背筋に嫌な汗が流れた。
まさか。
俺は視界の端にポップアップしているシステムログへと目を向ける。平坦な緑色の文字が、冷酷な事実を告げていた。
【System:対象エリア(座標: Bakery)にて、オブジェクトのレンダリング障害が発生中】
【System:バックグラウンドでの自動キャッシュ保持に失敗しました。一時的な描画消失がループしています】
「……マジかよ」
俺の権限が制限されたことで、王都(システムが常時維持している物理演算フィールド)の『自動修復処理』にまで遅延やバグが生じ始めているのだ。
要するに、新しく作られたアイテム(焼きたてのパン)のデータ保存が間に合わず、フィールド上からエラー表示されて見えなくなっているだけである。
「アッ、アッシュ様ぁぁっ!!」
俺の姿に気づいたおやじさんが、地面を這うようにしてすがりついてきた。
「神よ……どうか、我らが愛するパンをお救いください! このままでは、王都の朝の活力(朝食)が失われてしまいます!」
「ああ、わかった。落ち着いてくれ」
俺は冷や汗を拭いながら、空っぽの陳列棚の前に立った。
『Delete(消去)』でも『Rewrite(書き換え)』でもない。これは単なる表示バグだ。俺のダウングレードされた暫定権限であっても、失われたデータを手動でリフレッシュ(再読み込み)するくらいならできるはず……!
「Target:Bread_Cache……Action:Manual_Refresh(手動再構築)!」
俺は頭の中でコンソールを叩き込み、視界に浮かんだ『手動パッチ適応 [YES]』のボタンを押し込んだ。
【System:……アクセス権限を確認中……】
【System:暫定権限でのコマンド実行を承認。ローカルキャッシュの再構築を実行します】
ポォォォンッ!!
眩い光が弾け、次の瞬間。
空っぽだった木製の陳列棚の上に、山盛りのクロワッサン、塩パン、バゲットが一瞬にして『出現』した。
しかも、オーブンから出した直後のように、湯気と香ばしい匂いを漂わせて。
「おおおおっ!!」
集まっていた客たちから、どよめきと大歓声が上がった。
「見ろ! アッシュ様が無から有を……パンを『創造』されたぞ!!」
「焼きたての温もりすそのまま……なんという奇跡だ! これが神の愛……ッ!」
おやじさんが感極まってボロボロと泣きながら、一番大きなバゲットを胸に抱きしめた。
「神よ! 我らがアッシュ神よ!! 本日のパンはすべて無料で皆様に振る舞いますぞーーっ!!」
「わああああっ!!」
「アッシュ様万歳!!」
……まただ。
消えたデータをローカルキャッシュからロードし直しただけなのに、完全に「神によるパンの奇跡」として歴史に刻まれてしまった。
俺は塩パンを一つ受け取りながら、歓喜の輪の中で愛想笑いを浮かべていた。
まあ、一時的にせよ解決したんだから、これでひとまずの平穏は……。
その時。
ピピッ、と。
俺の視界の端で、赤色の文字が立て続けに点滅を開始した。
【System:Warning。同種のレンダリング遅延障害を、王都内『第3区画』『第5区画』『第8区画』で同時多発的に検知しました】
【System:バックグラウンド演算のスタックが 80% を超過。自動デバッグが追いつきません。手動での個別パッチ適用を要請します】
「……」
俺は手の中の塩パンを落としそうになった。
パン屋ひとつだけじゃない。王都のあちこちで、同じように「物が突然消える」いや、下手すれば「突然壁がなくなる」「橋が非表示になる」といったシステム障害が起き始めているのだ。
俺の百発百中のオート処理(完全権限)が失われた影響で、世界そのものが少しずつ軋みを上げている。
「アッシュ様?」
不思議そうに見上げるパン屋のおやじさんに、俺はひきつった笑顔を返した。
「……悪い。俺、ちょっと急用(全国出張パッチ当て作業)ができたみたいだ」
のんびりした日常スケールのバグは、あっという間に王都全体を巻き込む『物理障害の連鎖』へと拡大しようとしていた。
次は、パン屋だけでは済まない。




