乾いたのは服だけ、失敗率1.2%
噴水直撃事件から三十分。乾いたのは服だけだった。
ずぶ濡れになった俺は、エレナの速乾魔法(ドライヤー機能付きの神聖魔法みたいなもの)によってなんとか人権を取り戻していたものの、心の中は完全に冷え切っていた。
「アッシュ様……申し訳ございません。私の察しが足りませんでした」
エレナが申し訳なさそうに頭を下げる。
「私がすぐに対処していれば、あのような……いえ、違いますね」
エレナはハッとしたように顔を上げ、俺に向かって深々と、そして熱烈な目を向けてきた。
「アッシュ様は、あえて御自ら『冷水』を浴びられたのですね!?」
「……は?」
「思い返せば、この数日間の王都は、教団の脅威も去り、あまりにも気の緩んだ空気に包まれていました。噴水の管理という初歩的なメンテナンスすら怠るほどに! アッシュ様はあえて無防備に水を浴びられることで、我々人類に『平和に胡座をかくことへの警鐘』を鳴らしてくださったのですね!!」
相変わらずのノータイム全肯定である。
だが、俺の顔は引きつったままだった。
違う。俺はただ、視界の【YES】ボタンを押したのに、権限不足で弾かれて、普通に水をかぶっただけなのだ。
「……そ、そうだな。あまり平和ボケするのも良くないからな」
「おお……なんたる深き御心! すぐに魔法省と騎士団に、王都全域のインフラ一斉点検を下命してまいります!」
エレナが勢いよく走り出そうとするのを、俺は慌てて止めた。
「待て待て! 今日は俺の休日だろうが。とりあえず、学園に戻ろう。制服の替えも置いてるしな」
そんなわけで、俺たちは予定を切り上げて王都至高魔法学園へと帰還した。
休日とはいえ、学園の訓練場では熱心な生徒たちが自主練に励んでいる。俺たちが訓練場の脇の渡り廊下を通りかかった時だった。
「くっ……魔力制御が……!」
下級生の男子生徒が、身の丈ほどもある巨大な火球の魔法陣を展開したまま、顔面を蒼白にしていた。
どうやら、背伸びして上位の魔法に手を出した結果、魔素の暴走を引き起こしてしまったらしい。
「馬鹿っ、早く詠唱を破棄しろ!」
「だ、ダメです! 術式がロックされて……このままじゃ爆発します!」
周囲の生徒たちがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
あー、もう。どいつもこいつも、魔素の扱いが雑すぎる。
「ちょっと待ってろ」
俺はため息をつきつつ、訓練場のフェンスに歩み寄った。
暴走した火球がさらに膨張し、爆発の臨界点に達しようとしている。
【System:学園第3訓練場にて、中規模の熱源暴走を検知しました】
【System:強制終了(Delete)プロセスを実行しますか? [YES/NO]】
俺の視界に、いつもの緑色のログがポップアップする。
先ほどの噴水の一件で、俺の『管理者権限』は監査AIによって一時的な仮権限にダウングレードされていることが分かっている。
だが、あの噴水の時も「完全に効かなかった」わけではない。水量は半分程度に減っていたのだ。
だとしたら、この程度の暴走なら……!
「……Target:Fireball_Error。Action:Delete」
俺は心の中でコマンドを唱え、視界の【YES】ボタンを力強く押し込んだ。
頼む、消えてくれ! 神様(AI)!
【System:……アクセス権限を確認中……】
【System:暫定権限でのコマンド実行を承認。ただし、帯域制限により完全な消去プロトコルに欠損が生じました】
【System:部分最適化による実行処理に移行します】
直後。
ドォォォォォンッ!!
「うわあああっ!?」
「きゃあっ!」
訓練場に、けたたましい爆発音が響き渡った。
もうもうと立ち込める黒煙。爆発の衝撃波で、周囲のガラスがビリビリと震える。
……消えなかった。
いや、完全に消えなかったわけではない。本来なら訓練場全体を吹き飛ばすほどの威力を持っていた巨大火球は、ほんの「爆竹数個分」程度の小さな爆発へと縮小されていた。
だが、それでも「ゼロ」にはできなかったのだ。これまでの俺なら、火の粉一つ残さず、完全に空間ごとクリア(消去)できていたのに。
「ゲホッ、ゴホッ……! た、助かった……?」
爆発の中心にいた男子生徒が、煤まみれになりながらも無傷で崩れ落ちる。
そして、周囲の生徒たちの視線が一斉に俺へと向けられた。
「ア、アッシュ様だ!」
「アッシュ様が、またしても我々を救ってくださったのだ!」
「……」
俺は額からツーッと流れる冷たい汗を感じながら、無言で立ち尽くしていた。
ここで「いや、本当は全部消すつもりだったんだけど、システムの調子が悪くてちょっと火が残っちゃった」などと言うわけにはいかない。
すかさず、隣りにいたエレナが一歩進み出た。
「皆様、お分かりいただけましたか!」
エレナの凛とした声が、訓練場に響く。
「あれほどの暴走魔法……アッシュ様がその気になれば、塵一つ残さず消し去ることは容易かったはず。しかし、アッシュ様はあえて『恐怖を感じる程度の小さな爆発』だけを残されたのです!」
「な……なんだって?」
「なぜわざわざそんなことを?」
生徒たちがざわめく中、エレナは陶酔しきった目で俺を振り返った。
「慢心への戒めです!!」
「……え?」
「己の魔力も制御できぬ未熟者が、強大な力に手を出す愚かさ。アッシュ様は、対象を無傷で救いつつも、『痛みと恐怖を伴う爆発』という結果を残すことで、彼に生涯忘れられぬ魔法使いとしての教訓を与えてくださったのです!! なんという慈悲……なんという厳しくも温かい導き……っ!」
「おおおお……っ!!」
訓練場の生徒たちが、一斉に感涙にむせびながら土下座を始めた。
「アッシュ様ぁぁっ! この命、そしてこの教訓、一生忘れませんっ!!」
「我らが神の御導きに感謝を!!」
……違う。違うんだ。
俺のデリートが、ただ少し「滑った(失敗した)」だけなんだ。
大歓声の波の中で、俺は視界の端にポップアップした小さなシステムログを、絶望的な気分で見つめていた。
【System:本日のコマンド実行完了。監査モードに伴うパケットロスのため、強制終了コマンドの『部分失敗率』を算出しました】
【System:現在のエラー削除における失敗確率……[約 1.2 %]】
1パーセント。
数字だけ見れば、99パーセントは成功するのだから大したことはないように思える。
だが、相手は「世界を構成するバグ(魔法)」だ。もしそれが、王都を消し飛ばすような極大魔法だった時、その「1パーセント」を消し損ねたらどうなる?
……確実に、俺もろとも死ぬ。
「アッシュ様、素晴らしい御導きでございましたね」
エレナが嬉しそうに微笑みかけてくる。
「……ああ。そうだな……」
俺の胃は、第一部の教団テロ事件の時よりも、はるかに重く激しく痛撃を受けていた。
百発百中の神(システム管理者)から、百回に一回は致命的なミスをするポンコツ神への転落。
しかも、最悪なことに。
俺が権限をダウングレードされたことによる「世界のシステム上の歪み」は、この直後から、王都のあちこちで局地的な【小規模障害の連鎖】となって現れ始めるのだった。
そして最初の被害報告が、同時に三件、神務庁へ飛び込んできた。




