第32話 Nullをスライム化せよ
城の奥深く、気候制御の中枢コアがある部屋。
そこには、俺たちの案内役をしてくれていた蜘蛛魔獣たちも震えて入れないほどの、濃密で禍々しい『重圧(バグの気配)』が立ち込めていた。
「アッシュ卿。ここから先は、ただの魔獣の巣ではないな」
セレスティア王女が魔剣を構え、エレナも杖に極大の魔力をチャージしながら警戒する。
「ああ。ここが王都の気流を乱している原因だ」
俺は重い金属製の扉を、手動で押し開けた。
内部は広大なドーム状の空間だった。その中央に、周囲の空間そのものを歪ませるほどの質量を持った『それ』が浮遊していた。
「な、なんだあれは……!」
レディスが悲鳴を上げる。
そいつは、特定の形を持っていなかった。黒い霧と紫の雷が複雑に絡み合い、常に形を変え続ける——巨大な『バグの塊(システムエラーの具現化)』だった。
『警告:未知のクリティカル・エラー(Null Pointer Exceptionの具現体)を検知』
『該当オブジェクトは、あらゆる物理法則および魔法法則から逸脱しています』
「法則から逸脱してるって……」
俺は顔を引きつらせた。
「ギャァァァァァァッ!!」
バグの塊が、不協和音のような鳴き声を上げた。
直後、その体から無数の【黒い刃】が放たれ、俺たちに向かって殺到してきた。
「王女殿下!!」
「わかっている! 『聖盾の煌き』!」
王女が魔剣を盾の裏に打ち付け、強固な光の壁を展開する。エレナもその内側に『絶封の氷壁』を重ね掛けした。
——だが。
ズプッ、と。
黒い刃は、その絶対の防御を【透過】して、俺たちの足元の床に着弾し、床を抉り取った。
「透過した!? 防御が防がれたのではなく、すり抜けた!?」
王女が驚愕に目を見開く。
当たり前だ。あいつは「物理的・魔法的法則から逸脱」している。ゲームで言えば「当たり判定がバグっている攻撃」なのだ。通常のシールド(結界)で防げるわけがない。
「しかも、あいつ自身の存在判定もブレまくってる……!」
俺は視界のUIを必死に凝視した。
俺のデリートコマンド(YES)を当てようにも、対象の『パラメーターの輪郭(オブジェクトの定義)』が定まらないため、クリック(選択)すらできないのだ。
「これじゃ、削除も書き換えも効かない……っ!」
バグの塊が、さらに大きく膨張し、今度は空間全体を飲み込むほどの巨大な【黒霧の波】を発生させた。
あれに触れれば、生身の肉体などエラー判定で「存在しなかったこと」にされて消滅してしまうだろう。
「アッシュ様!!」
エレナが、俺の前に両手を広げて立ち塞がった。彼女は防御魔法を解き、無防備な体で俺を庇おうとしている。
「逃げてください! この身が塵となろうとも、数秒だけは——!」
「やめろ馬鹿!」
俺は咄嗟にエレナの腕を掴み、背後に引き倒した。
目前に迫る黒い絶望。
何か、何か打つ手はないのか!
『システム推奨:対象のオブジェクトは未定義(Null)状態です』
『デリートや書き換えを行うには、まず対象に【意味】を付与し、実体化(インスタンス化)させる必要があります』
「意味を付与する……?」
文字通り「定義」を与えるということか。
——なら、簡単だ。
あんな得体の知れないバグの塊なんて、俺が知っている一番単純で、弱くて、分かりやすい【概念】に「実体化」させてしまえばいい!!
「Target:Unknown_Error_Entity (不明なバグ実体)」
「Action:Force_Instantiation (カプセル化からの強制実体化)」
「Class_Define:Slime_Lv1 (定義:レベル1のスライム)」
俺は脳内で、怒涛の勢いでコマンドを実行した。
——ピキィィィィン!!
俺たちを飲み込もうとしていた巨大な黒い霧が。
空間を歪めていた紫の雷が。
不気味なノイズと共に一瞬で収束し——。
ぽとん。
と。
ドームの中央に、手のひらサイズの「プルプルした水色のスライム(Lv1)」が落ちてきた。
「……」
「……え?」
エレナと王女が、その小さなスライムを見つめたまま固まった。
「ぷるんっ♪」
水色のスライムは愛らしく跳ねると、俺の足元までポヨポヨとやってきて、靴の先をペシッと弱々しく叩いた。
ダメージはゼロだ。
「……ふぅっ」
俺は深々と安堵の息を吐き、足元のスライムを両手でそっと拾い上げた。
「よし、これでエラーの実体が『物理的なスライム』として固定された。これならいつでも『デリート(削除)』できる」
【System:未知のエラーの初期化(スライム化)に成功。完全削除を実行しますか? [YES/NO]】
「ん……?」
俺は視界の【YES】ボタンを押そうとして、ふと手を止めた。
手のひらの上のスライムが、「きゅるん」とした目で俺を見つめていたからだ。
バグとはいえ、こんなに無害で可愛い見た目に書き換えてしまったものを、プチッと消去するのは少し気が引ける……。
「……アッシュ、様……?」
その時。
俺の後ろから、信じられないものを見たというような、震える声が響いた。
エレナだった。
「……世界そのものを蝕む、名状しがたき絶望の概念を……」
エレナがボロボロと涙を流しながら、俺とスライムを見比べる。
「愛らしい……ただの一匹の『命』へと、創り変えられた……」
「いや、これはただの便宜上の実体化で——」
「慈愛だ……っ!!」
ドンッ!と、今度はセレスティア王女が感極まって膝をついた。
「いかなる魔の力であっても、アッシュ卿の御手の前ではすべてが等しく『愛すべき守るべき命』へと生まれ変わるのだ! 卿は、世界を【粛正(削除)】する気など端からない……すべてを【愛(書き換え)】によって救済するおつもりだったのですね!!」
「アッシュ神!! アッシュ神!!」
「我らが創造主!!」
ドームの中で、王女とエレナ(と後ろのレディス)が、もはや狂気とも言える歓喜の涙を流して俺を褒め称え始めた。
俺は手のひらの上のスライム(元・王都を滅ぼすバグ)を見つめながら。
「……なんかもう、これでいっか」
と、平穏な公務員ライフが完全に消え去った未来を受け入れ、乾いた笑いをこぼすのだった。
だが数時間後、魔法省から届いた一枚の通知が、その乾いた笑いに別の意味を与える。




