74.御者仕事と肉団子のトマト煮込み
昼前のロンドールを、一台の辻馬車が急ぐ。
二輪仕立てのホロ付き馬車は、達也の世界でいうところのタクシーに当たる存在だ。
「もっと速くできないのか! 約束の時間に遅れてしまう!」
声を荒げる上流階級客。
馬車だけでなく、人通りも多いロンドールの街路。
グレーのツイードジャケットに、同色のトラウザー。
フラットキャップに革手袋という姿をした御者は、最大限の注意を払いつつ、人ごみを縫うようにして進む。
「っ!」
突然角から出てきた荷馬車が、道を塞いだ。
御者は手綱を巧みにさばいて接触を避け、馬も息を合わせて再び速度を上げる。
見事な運転だが、下がった速度は客にとって苛立ちの原因でしかない。
「速く……もっと速く!」
そのまま馬車は進み、通常よりもかなり短い時間で目的地に到着。
すると客の男は、代金を突きつけてきた。
御者は釣りを用意するが、すでに客はこちらに背を向け走り出すところだった。
「やはりもう、時代は鉄道だな……!」
そんな言葉を残して。
「釣りは……」
客の男は返事もせず、そのまま走り去っていった。
御者は用意した釣銭を無言でポケットに突っ込み、ため息を吐く。
鉄道が長距離馬車の仕事を、奪い始めた時代。
四十歳になるバート・クラークはまさに、長らく続けたロンドール発の長距離馬車を止め、街馬車の御者へと仕事を変えたばかりだった。
しばらく適当に走らせたところで、切れる気持ち。
バートは労働者街の一角に馬車を止めると、そのまま何をするでもなく灰色の空をぼんやり見上げる。
喧騒の中、過ぎていく時間。
空虚な気持ちは、夕方が近づいてきても変わらない。
以前の仕事では、数日がかりになるのが当たり前だった。
道を選び、馬の負担を考え、危険を避けながら客や荷物を遠い街に届けた時には、確かに感じられた達成感。
「そんなものに、もう意味はないのかもしれないな」
再びもれる、深いため息。
「――――昼、まだでしたよね?」
かけられた声に、振り返る。
そこにいたのは、白のシャツに黒いエプロンをした一人の男。
東雲達也は開店時から動かずにいた馬車と、御者の無気力な表情が気になっていた。
「これは……?」
「肉団子のトマト煮込み。そこで料理店をやってるんです、賄の余りで良かったら食べてください」
達也はクラフト紙で作られたフードボウルを渡すと、それ以上何も言わず『みけ』へと戻って行く。
バートは少し考えるようにした後、パンが乗せられたフタを開けてみる。
「おお……」
思わず、感嘆してしまう。
真っ赤なトマトソースの海から顔を出す、大きな肉団子たち。
うまそうな焼き跡と、まぶされたパセリの美しい緑色が、見るだけで食欲を刺激する。
湯気と共に立ち昇るトマトとハーブの香りは、冷えた気持ちをじんわりと温めてくれるかのようだ。
「こんなにうまそうなメシ……初めて見た」
ブリティシアではトマトの存在を知る者が、そもそも少ない。
初見の食材を前にバートは恐る恐る、付け合わせの木製スプーンを手に取った。
「どれ……」
思い切ってスプーンに一個、肉団子を乗せてみる。
そしてそのまま、かじりつく。
「う、おおっ!?」
最初に感じたのは、焼けた肉団子の微かな香ばしさ。
肉は粗挽きのしっかりとした食感を残しているが、長く煮込まれたおかげで驚くほどに柔らかい。
噛むたびに牛肉の旨味と豚肉の甘みがあふれ、その後を追うようにトマトのまろやかな酸味と、炒めたタマネギの甘みが広がる。
濃厚なのに重すぎず、もう一口、もう一口と自然にスプーンが進んでしまう味わいだ。
溶け込んだ合挽き肉の旨味と、ニンニクの風味が合わさることで生まれたトマトソースは、一滴でも残すのが惜しくなる。
「うまい……っ! なんてうまいんだ……っ! 食べ切るのが、もったいないくらいだ!」
添えられたパンを浸せば、その香ばしさとトマトソースを吸って生まれたしっとり感が、最後まで違ったおいしさを楽しませてくれる。
胃袋だけでなく心まで満たされるその一品は、初めて口にするのに、どこか懐かしくて優しかった。そして。
消沈していた自分を気にかけてくれた人間の存在に、感じるありがたさ。
目を閉じ、思わず大きく息をつく。
「……ひと仕事、いっとくか」
ゆっくりと顔を上げたバートは、ようやく馬車を走らせることができた。
◆
この日『みけ』の昼は、特に混み合っていた。
「マリアさん、会計よろしく」
「こっちも!」
「俺もお願い!」
「あらあらあら」
マリアは慌ただしく、店内を動き回る。
それでも立ち振る舞いが優美なのは、見事なものだ。
「……ダメか」
そんな中、一人の男性客が無念そうなつぶやきと共に、エマを呼んだ。
「これ、代金」
「えっ? でもまだ、料理を食べてないですよね?」
「実は今日ロンドールを離れるんだ。それで最後の思い出にと考えて店にやって来たんだが……もう汽車の時間なんだよ」
男は寂しそうに言うと、代金をカウンターに残して席を立つ。
今日はいつにも増して来客が多く、待ち時間と調理時間を合わせると、それなりに待つことになる。
残念ながら、汽車の発車時刻には間に合わなかったようだ。
「エマちゃん、提供よろしく……あれ?」
完成させた料理をエマに任せようとした達也が、すでに男の姿がない事に気づいた。
「お客さん、汽車の時間だったみたいで……今日ロンドールを発つから、思い出にって考えて来てくれたみたいなんですけど……」
「……そういうことか」
そのことを知って、悲しそうに息をつく達也。
注文は、サンドイッチ三種。
すでに持ち帰り用に準備していた分は完売済みで、新たな調理にはある程度の時間が必要だった。
だがカツをやめてBLTとタマゴだけに絞るよう提案すれば、ギリギリで間に合ったかもしれない。
何より、わざわざ自分の料理を食べに来てくれた人に、何も出せなかった。
こみ上げてきた悔しさに、拳を握る。
残された代金を手にしたままのエマも、申し訳なさそうにしている。
「店主、その料理を包んでもらえるか」
すると、一人の男が立ち上がった。
それはエマと客のやり取りを近くで見ていた、御者のバートだった。
「幸い店に来たばっかで、オーダーはまだ通してないしな」
そう言って、今もまだ状況を把握し切れずにいる達也たちに告げる。
「料理は……俺が届ける」
「でも、今からでは……」
「どんな状況でも必ず相手に届ける。それが長らく続けてきた俺の仕事だった……やるだけやってみるさ」
「……分かりました」
可能性があるのなら、賭けない理由はない。
達也は出来立てのサンドイッチを包むと、紙箱に入れてバートに預ける。
「いってくる」
「よろしく……お願いします」
頭を下げる達也に一つうなずいてみせると、バートは走り出した。
そのまま馬車に乗り込んで、馬を走らせる。
しかし、駅には向かわない。
「発車目前の汽車。ロンドール駅で客を探すんじゃあ、時間がかかる」
ロンドン駅は人も荷物も多く、また目当ての客がどのホームにいるかも分からない。
発車直前に探そうとしても、短い時間では見つけられない可能性が高い。
「勝負は……次の駅だ!」
だが次の停車駅なら乗降客も少なく、ホームも一つだけ。
何より、各駅に数分の停車時間がある。
「こっちは石畳みが減って滑りやすい、急ぐなら一つ隣りの道だ!」
バートの駆る一頭立ての街馬車は、小さいからこそ機動力がある。
通行人を上手にかわして入り込んだ道で、わずかに速度を上げる。
あくまで慎重さは残し、予想通り出てきた荷馬車をかわして前へ。
「ここは右だ!」
馬を消耗させる坂を避け、多少の回り道でも結果として早く進めるルートをしっかりと選択する。
「この道は、毎週のように走ってたからな……!」
ロンドールから続く近道や町道なら、熟知している。
そんなバートの指示に応えて、馬は狭いロンドンの道を最短で駆け抜けていく。
やがてレンガ造りの家が減り、工場や倉庫が並び出した。
そのまま土の街道へ出ると見通しが一気に良くなり、速度を抑える必要がなくなる。
「よし、行くぞ相棒!」
馬の走りが軽くなったところで、鳴らす手綱。
菜園や牧草地、農地の並ぶ街道を全速で進み、羊の群れ、荷馬車、農夫をかわして突き進む。
「林道。先日の雨を考えりゃ、足元が悪くなってるはずだ!」
バートはここでもぬかるむ近道を外して、小さな林道の外側を通る事を選択。
経験で選ぶ、最適ルート。
その先にあったのは、ロンドン郊外で街道と線路がわずかに並んでいる区間だ。
「お出ましだな」
黙々と煙を上げながらやって来た機関車が、バートの馬車の右側に並んだ。
力強いその走りは、圧巻の一言。
こちらに気づいた見知らぬ乗客に、バートは片手で帽子を軽く上げて挨拶を一つ。
並走は、ほんの十秒ほどだった。
列車はここから、勾配を避けるために丘の外側を回り込むような形で走っていく。
対してバートの馬車は、丘の内側をショートカットするような形で直進し、その先にある村の駅へと向かう。
「そら、ここが勝負所だ! 急ぐぞ相棒!」
分かれる道。
バートは小川の流れる橋を渡り、小さな村に入り、そのまま真っ直ぐ駅目指して駆けていく。
「『みけ』のサンドイッチ、食べてみたかったなぁ……」
つぶやいたのは、先ほど何も食べずに『みけ』を出た男。
ロンドールを定刻通り出発した汽車は、滞りなく次駅に到着した。
始まる客の乗降。
男がその光景を、ぼんやり眺めていると――。
「ほら、忘れ物だ」
「……ん?」
かけられた声に振り向くと、そこには紙箱を差し出すバートの姿。
「これは?」
ホームから窓越しに差し出された包みに、男は困惑する。
「『みけ』の店主からだ」
「こ、これは……っ!」
受け取った包みを開くと、そこには美しいサンドイッチが三種類並んでいた。
「おっと、もう時間か」
駅員が鐘を鳴らし、続けてあがる汽笛の音。
煙と共に車輪がゆっくりと軋み出し、列車が動き出す。
「あ、ありがとうございました……っ!」
深く頭を下げて、伝える感謝。
御者は軽く帽子を上げて応えると、何事もなかったかのように馬車へと戻って行く。
動き出す汽車の中で、男はさっそくサンドイッチを手に取った。そして。
「おおっ、こいつはうまい……っ!」
走り去るバートの馬車を見送りながら、思わず歓喜の声をあげた。
それは彼にとって生涯忘れることのない、最高の一品となったのだった。
◆
「どうでしたか?」
『みけ』に戻ってきたバートに、達也が問いかける。
「ギリギリってところだな」
間に合ったと知って拍手でよろこぶエマと、そのエマの両肩に手を置いてほほ笑むマリア。
「ありがとうございます。あなたに頼んで良かった」
ロンドールを発った客の希望に応えられて、達也もうれしそうだ。
「なに、大したことじゃない」
そう言いながらも、感じる確かな達成感。
「……遠くへ走る仕事はなくなったが、街の中にもまだ走る意味は残っているんだな。こういうのも……悪くない」
笑みと共に、自然とそんな言葉がこぼれ出た。
「お礼にぜひ、何か食べて行ってください」
「そうか……それならあの、肉団子のトマト煮込みを頼む。あと……」
「あと……?」
「相棒にリンゴを一個、頼めるか?」
「かしこまりました」
晴れ晴れとした表情のバートにもう、迷いはない。
達也はほほ笑みながら、大きくうなずいたのだった。
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