70.上がらないヒザとチリコンカン
「買ってきたよ」
紡績工場の一室に駆け込んできたのは、技術者のルーカス。
その手にはすっかり人気になった、『みけ』のBLTサンドが二つ。
「ありがとうございます」
受け取ったのは、美しく長い黒髪を持つ工員のエリス。
さっそく二人は、BLTサンドにかじりつく。
「おいしい……」
「最近は忙しくて、持ち込みのパンを塩漬け肉で食べる毎日だったからなぁ」
楽しみである『みけ』での食事も、長らくお預け状態。
今日は運良く、ルーカスが走って持ち出しのサンドイッチを買いに行けたという形だ。
二人は息をつく暇もなく昼食を終えると、大きく息をついた。
そして再び、作業に戻っていく。
「っ!」
「大丈夫?」
「ありがとうございます」
転びそうになったエリスを、とっさに支えるルーカス。
齢三十を迎えようかというこの青年は、気になるエリスにずっと声をかけられずにいたが、『みけ』に誘ったことで距離を縮めた。
今では時間に余裕ができれば、一緒に『みけ』に通う仲だ。
「最近少し、足元がフラフラしていて」
「疲れもたまってるんだろうね……無理はしないで」
「はい。でも今日はおいしいサンドイッチが食べられたので、すぐに良くなると思います」
掛けられた心配の言葉に、うれしそうにするエリス。
「ルーカスさんと一緒に働けて、良かった」
「俺だって同じだよ」
二人は笑い合うと、慌ただしく仕事へと戻って行くのだった。
◆
「あ……っ!」
紡績工場の一角。
体勢を崩したエリスは、派手に転倒した。
「……すみません」
普段静かな彼女はつぶやき、頭を下げる。
向けられる困惑の視線。
なぜなら彼女の転倒はここ最近多発しており、一度や二度の話ではないからだ。
一日に何度もというのは、さすがに頻度が高すぎる。
「エリスさん、どうしたの?」
「最近ずっとあの調子よね」
そしてその様子は、最近忙しくしている工場のオーナーにも目撃されていた。
「君、よく転んでるけど大丈夫なのか?」
「はい……」
「仕事の効率も落ちてるし、少し……休みを取った方がいいんじゃないか?」
「……っ!」
かけられた言葉に、エリスが息を飲む。
なぜなら『休みを取れ』は、そのまま解雇につながる可能性が高い。
このオーナーはこれまでにも、同じ言葉で動きの悪い労働者をフェードアウトさせてきた。
「どうだい? ここで一度休みを取るというのは」
「あの、ええと」
「大丈夫ですよ! ここ最近忙しかったじゃないですか! ちょうど落ち着いたところですし、疲れなんてすぐ取れます!」
慌ててフォローに入ったのは、ルーカス。
「本当かい?」
「はい! 間違いありません!」
「なるほど。まあ……君がそう言うなら」
技術者として真面目にやってきたルーカスの言葉に、オーナーは一応の理解を見せる。
「でもこれが続くようなら……すぐにでも休んでもらうよ」
とはいえこれは、執行猶予がついたに過ぎない。
このままでは遠くないうちに、言い訳もできなくなってしまうだろう。
エリスの転倒は、もはや看過できる状態ではない。
オーナーはしっかりと、釘を刺してから去って行った。
「今日はようやく時間ができたし、何か食べに行こう! 絶対大丈夫だから!」
「……はい」
長らく忙しい日々が続いていたが、仕事はちょうど一段落したところ。
ルーカスはエリス元気付けるため、久しぶりに誘って工場を出た。
「ここ最近は運良く店に行けても、持ち帰りのBLTサンドを買うだけだったからね」
串揚げで仲良くなった二人の行き先は、もちろん『みけ』だ。
「いらっしゃいませーっ!」
「いらっしゃいませ」
昼過ぎの、落ち着き始めた時間帯。
ずいぶんと上品な新人マリアに案内されて、二人はわずかに驚きながら、並んでカウンター席に腰を下ろした。
「調子、悪いみたいだね」
ルーカスも、もちろんエリスの不調には気づいていた。
「なんだか最近足が痺れて、歩きにくいんです。それに疲れやすくなった気がして……」
そう言って、明らかに落ち込んだ様子を見せる。
「それならとにかく栄養だよ! 今日は一杯食べよう。特に最近は塩漬け肉とパンばっかりだったから」
どうやらエリスは慢性疲労と足の痺れ、ふらつきに伴う歩行困難に悩んでいるようだ。
「今日は丼ものなんかどうかな? よくアランが食べてるけど元気が出るって。きっと体調も良くなる! そうだよね、店主」
「……一応、一つ確認させてもらってもいいか?」
悩める二人に、そう告げたのは達也。
「慢性疲労と歩行困難の原因が、単純なエネルギー不足とは限らない……エマちゃんもちょっと」
「はいっ」
達也はエマをエリスの隣に座らせると、普段使わない大きめのスプーンを手に取った。
そして通常のメイドより短いエマのスカートからのぞいたヒザに、そのままスプーンの背をコツンと当てる。
「わっ!」
すると、エマの足が跳ね上がった。
「病気でなければ、こうやって足が反応して上がるんだ」
「まあ……私もお願いしてもいいでしょうか?」
そう言ってマリアもカウンター席に腰を下ろすと、スカートをヒザまで待ち上げる。
達也が、ヒザを軽く叩くと――。
「きゃっ」
こちらも見事に、足が反応して跳ねた。
「……エマちゃん、足上がりすぎじゃない?」
サッカーくらい足が上がっていたエマに、笑うハリソン。
「こういうところでも、マリアさんの上品さが出るんだな」
「オリバーさんのフィッシュアンドチップスは、小魚になります」
「なっ!? 違うんだ! 今のは別に――――ぶふっ!」
言うそばから達也のスプーンにエマの足がビンッ! と上がって噴き出すオリバー。
「ルーカスさんも」
達也に渡されたスプーンを手に、エリスの前にヒザを突く。
そして達也と同じように、コツンとぶつけるが――。
「……上がらない」
驚くルーカス。
エリスの足は、ピクリともしなかった。
「脚気だろうな。これならメニューは、少し考えた方がいいかもしれない」
「お、お願いするよ! あと僕にも、エリスと同じものを!」
ルーカスはすぐに、そう言ってオーダーを決めた。そして。
「大丈夫。店主のお勧めなら、絶対良くなるよ」
上がらなかったヒザに、いよいよ心配そうにしているエリスを、元気づけるように笑いかけた。
それからは出来る限り、明るく話を続けるルーカス。
しばらくすると、マリアがやって来た。
「お待たせいたしました、チリコンカンです」
二人の前に、楚々とした所作で料理を並べていく。
「初めて見る料理だ……」
「……はい」
小さな鍋のような形状をしたココットには、鮮やかな赤褐色の煮込みが盛られている。
豚ひき肉とたっぷりの豆を、トマトとスパイスで煮込んだ艶やかな一品。
その表面には、熱で浮かんだ脂がわずかに輝いて見える。
湯気に混じって届くのは、炒めた肉とトマトに、チリパウダーとクミンの香りが混じった匂いだ。
「……ごくり」
熱と刺激を感じさせる料理は、異文化の気配を放っている。
「おいしそうです」
初見でも『食べたみたい』と思わせるのは、達也の盛り付けの美しさによるもの。
さっそくエリスが、スプーンを使って一口。
「ん……っ!」
口に入れた瞬間、広がるのは温かなトマトの柔らかい酸味。
そのすぐ後に、豚肉の濃厚な旨味がにじみ出し、豆の甘みと混ざり合う。
柔らかなトマトと、粒感が心地良い豚ひき肉。
主役のホクホクとした豆は程よい噛み応えと共に割れて、その甘さを開放する。
この独特な食感が、濃厚なチリコンカンを飽きさせない一品にしているのだろう。
スパイスの辛さは刺すような鋭さではなく、身体の奥でゆっくりと温度を上げていく、程よい刺激。
豆、豚肉、トマト、それぞれの旨味を引き立てながら全体に力強さを与えている。
「おいしい……」
素朴でありながらも、力強さのある一品。
飲み込んだ後に残るのは、舌の軽い痺れと、じんわりとした熱だ。
胃の辺りが温まり、身体の中心に火が灯るような余韻を感じる。
「程よい辛さと酸味が……たまらないな!」
「はい……っ」
さらに付け合わせのパンをちぎって浸せば、煮込みの旨味が吸い込まれて、また別の料理のような食感を生み出す。
思わず、夢中になって食べる二人。
「初めて食べるけど、すごくおいしいよ店主。でもどうしてこの料理を?」
そんなルーカスの問いに、達也が答える。
「脚気は必要な一つの栄養が、しばらく取れていないと始まるものなんだ」
ビタミンB1の慢性的な不足が起こす、この病気。
エネルギー消費や糖質の代謝にビタミンB1が追いつかなくなることで、手足のしびれや歩行困難を起こし、重症化すると心不全の引き金となる。
だがブリティシアにはまだ、そのような知識はない。
都市の貧困層に広く見られる謎の病気として認識され、原因は『湿気』や『単純な神経衰弱』等、食事とは結びつけられていなかった。
チリコンカンのキドニービーンズは、まさにそのビタミンB1を豊富に含む。
豚肉にもB1は多く含まれており、タンパク質が体力回復を助ける。
そしてトマトの酸味は吸収を助け、油で炒めることで脂質が吸収を促進する。
「脚気にチリコンカンは、特効薬並みに聞く料理なんだ」
「なるほど……」
「長くても二週間あれば、良くなるはずだ」
「おおっ!」
達也の話に歓喜の声をあげたルーカスが、エリスの方を見る。
「よかった、本当によかった!」
心からの安堵を見せると、エリスも思わず笑みをこぼす。
「良くなるまで、オーナーは俺が止めておくから。今日はしっかり食べて行こう……って、あれ?」
気付いたルーカスが顔を上げると、エリスは慌てて視線をそらした。
見ればエリスの皿はすでに、チリコンカンはもちろんパンまで欠片も残さずなくなっていた。
「もう一杯、食べる?」
達也が聞くと、エリスは恥ずかしそうにうなずいた。
「……可愛い」
顔を赤くしながらもうなずくエリスに、思わず本音がもれるルーカス。
「回復するまでは、持ち帰りもBLTじゃなく、スコッチエッグにするといい」
豚肉はベーコンになると、ビタミンがほぼ消失してしまう。
達也のそんな提言に、エリスは小さくうなずいたのだった。
◆
「ありがとうございました」
店にやって来るなり、お礼を述べたのはエリス。
翌日から始まった脚気の改善は、一週間を過ぎたところで症状を感じさせなくなった。
もちろん、解雇もなしだ。
「これも店主のおかげだよ。あんなにうまい料理で、病気の回復までしちゃうなんて」
「よかったですね!」
「あらまあ……」
喜ぶエリスとルーカスを見て、うれしそうにするエマ。
これにはマリアも、驚きを見せている。
「そうか、無事回復したんだな。良かった」
達也も祖父の威厳を思い出し、クールに決めてみせる。しかし。
「ルーカスさんが私のことを本気で心配してくれて……うれしかったです」
「当然だよ、エリスのためなら」
「ありがとうございます……」
「さて今日は、何にしようか」
「もちろん、ルーカスさんと同じもので」
「同じものを頼むと、エリスの方が先に食べ終わるからなぁ」
「もう、ルーカスさんっ」
エリスは恥ずかしそうに、ルーカスの肩を叩く。
どうやらまた、二人の距離は縮まったようだ。
「店主ゥ! 俺からのおごりで、二人にキンキンの冷や水を!」
するとそれを見た工員ハリソンが、勢いよく席を立ってオーダー。
「バケツで頼む!」
さらにアランまで立ち上がって、追加の注文を叩き込む。
「……かしこまりました」
「かしこまらないでくれよ!」
慌てて立ち上がるルーカスに、店内に笑いが起こる。
「うふふふふ」
初めて見る『みけ』の光景。
マリアは料理を運びながら、楽しそうに笑うのだった。
お読みいただき、ありがとうございました!
時々食べたくなる豆料理代表、バゲットと食べるのも大好きです!
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