69.酪農新時代とパングラタンとミルクティー
ロンドールから、北へ五十キロほど。
夜明け頃のハットフォードシャー駅には蒸気が舞い、重い金属音が鳴り響く。
そこへ台車に乗せた大きな牛乳缶を持ち込んできたのは、酪農家のエドモンド・ヒルだ。
「ロンドンは人口が増えてるから、牛乳を売れば……必ず儲かる」
各地を走り出した機関車。
鉄道会社は地方の酪農家に、積極的な牛乳の輸送を勧めていた。
「あんた、気を付けるんだよ」
眠そうな子供を抱えた妻の見送りに、エドモンドは大きくうなずく。
「任せとけ! これで子供たちを、学校に通わせられるかもしれないぞ……!」
鉄道会社の言葉を信じて切符を買い、乗り込んだ列車。
目指すのは、もちろん首都ロンドールだ。
ハットフォードシャーは農村地帯で、地元の需要だけでは牛乳が余ってしまう。
また保存が効かず、バターやチーズに加工するにも限界がある。
不安定な収入。
新たな取引先ができるのは、これ以上ない朗報だ。
「……何より、無駄にしなくて済むのがうれしいんだよな」
使いきれない牛乳を廃棄するのは、やはり心が痛む。
走り出す機関車の中。
エドモンドは大きな期待を胸に、遠ざかっていく家族に手を振った。
◆
朝を迎え、見えてきた街並み。
機関車の登場によって以前は六、七時間かかっていたロンドールへの移動は、わずか一時間ほどになった。
「ここが、ロンドールか……」
広がる蒸気の中を黒いシルクハットの紳士が歩き、赤い制服を着た鉄道員が叫び声を上げる。
駅はすでに巨大な交通の中心となっており、荷物を積んだ台車が何台も慌ただしく走り回っている。
貨物車の周りでは、木箱のぶつかる音がひっきりなく響いていた。
エドモンドは牛乳缶を台車に載せると、旅人でごった返す出入り口から駅舎を出る。
「おお……っ!」
一歩外に出れば、高い建物の並びが迫ってくるかのよう。
絶えない人の波に、馬車の蹄の音。
静かなハットフォードシャーとは、まったく違う。
あっという間に飲み込まれてしまった、都会の喧騒。
「……でも。これならきっと、牛乳も売れるぞ!」
街ゆく者たち全てが、お客さんになるかもしれない。
むしろその『違い』に明るい未来を想像したエドモンドは、牛乳缶を乗せた台車を意気揚々と押して進む。
わずかに進めば、そこは白いテラスハウスに手入れされた庭が並ぶ、絵に描いたような上流階級エリア。
田舎の新鮮な牛乳は、良いものを求める上流階級に喜ばれるに違いない。
さっそく呼び鈴を鳴らすと、黒い制服のフットマンが扉を開けた。
「すみません! 田舎の新鮮な牛乳をお持ちしました。お屋敷でお使いになりませんか?」
するとフットマンはエドモンドの服装と台車を一瞥して、わずかに眉をひそめる。
「当家において牛乳は、皿洗いや下働きをする子供たちに、温かい飲み物を与える時に使う程度のものです。必要ありません」
冷静にそう告げると、話を打ち切るように扉を閉じた。
思わぬ対応に、呆然とするエドモンド。
「い、いや……! 今回はたまたま巡りが悪かっただけだ!」
すぐに気を取り直して、次の家へ。
「失礼します! 田舎の新鮮な牛乳を、お屋敷でお使いになりませんか?」
「牛乳……?」
「はい! 搾りたてですよ!」
「当家の奥様が、どこの物とも知らぬ怪しい牛乳を、わざわざ口にされることはありません」
変わらぬぞんざいな対応で、この家のフットマンもエドモンドを冷たくあしらった。
「……つ、次だ、次の家はきっと!」
エドモンドは再び気を取り直して、新たな家へ。
「おいしい牛乳はいかがですか? 新鮮ですよ!」
「当家は必要なものは必要な時に、必要な相手からのみ買うという決まりですので、必要ありません」
しかしここでも、その対応は変わらない。さらに。
「この区画で飛び込みの商いは、無作法と見なされます。以後こうした行商は、下町でなさってください」
「……そんな」
ついにこの区画から「出て行け」と、言われてしまったエドモンド。
まさかの言葉に立ち尽くしていると、警戒した使用人たちが集まって来てしまって、慌ててこの場を去る。
「おかしいな……」
「必ず売れる」と聞いて、ロンドールにやって来た。
それなのに思わぬ需要のなさを見せつけられて、困惑しながら街へ出る。
その足で向かった先は、街の牛乳店だ。
店先にはいくつも牛乳缶が並び、配達用の馬車が停まっている。
「すみません! ハットフォードシャーから牛乳を持ってきました。今朝搾ったばかりで、とても質が良いんです。買っていただけませんか?」
「ああ、悪いけど、うちは仕入れ先が決まってんだ。よそから買っちまったら信用問題になっちまうし、それで納入が安定しなくなったら本末転倒だ。そもそも、あればあるだけ売れる商品でもないだろう?」
牛乳はそれなりに高価であり、労働者の街では『水で薄めて』安く売るのが基本。
ブリティシアではそのまま飲めばおいしい牛乳を、安さ重視で『マズくして』飲むのだ。
また大人は紅茶やエールを飲むため、そもそもの消費が少ない。
そして料理を知らないロンドールでは、調理にもほとんど使わない。
よって、新たに仕入れる必要がない。
「そういうわけだから、他をあたってくれ」
そう言い残して牛乳屋は、仕事に戻っていく。
「これは、マズいぞ……」
覚える、最悪の予感。
「牛乳屋の話を聞く限り、ロンドールに大した需要なんてない……これじゃ牛乳を捨てることになっちまう!」
牛乳が売れる気配は、まったくない。
このままでは、せっかく持ってきた牛乳を廃棄することになってしまう。
「何とかしないと……!」
丁寧に作ったからこそ、自信があった。
そんな牛乳を捨てるほど、悲しいことはない。
思い出すのは、ロンドールに向かう自分を見送りに来た妻と子の顔。
エドモンドは慌てて、近くのパブに駆け込む。
「牛乳を、牛乳を買ってもらえないでしょうか!?」
「牛乳だって? うちは大人の店だよ。そんなもん置いてたら笑われちまうよ」
店主は、笑いながら応えた。
酒場は大人の店であり、牛乳を飲む者などいないからだ。
「それならせめて何かに使ってくれないか? 無駄にしたくないんだ……!」
「そんなら、自分で飲むしかないんじゃないか?」
「「「あはははははっ!」」」
「…………」
とても牛乳が売れる雰囲気ではない。
トボトボと店を出たエドモンドは、台車を押しながらあてもなく街を歩く。
「痛……っ」
重たい台車を押し続けたことで、疲労を伴う痛みが足に走り出す。
しかし何より、牛乳を積んだ台車が急に重たくなったような気がした。
ため息をつきながら、進む道。
帰ってから捨てるより、ロンドールで廃棄してしまった方が当然移動を楽にできる。
分かっているからこそ、悲しい目で牛乳缶を見つめる。
「ロンドールなら売れるなんて話、真に受けたのがバカだったのか……」
皆が「うまい!」と喜ぶ瞬間を想像しながらやって来たからこそ、ダメージも大きかった。
「――――これって、牛乳ですかっ?」
そんなエドモンドに声をかけたのは、興味深そうにする金髪のメイド少女だった。
「……ああ。ロンドールで使ってもらおうと思って持って来たんだが……全然売れなくてな。このままだと、廃棄だよ」
「ええっ!? そんなのもったいないですよ!」
「そうだな……」
「達也さん、何かに使えないでしょうか?」
向けられた、期待の視線。
達也は少し考えた後。
「そういうことなら、やってみようか」
こうして開店前の散策中だった二人は、『みけ』へ。
エドモンドをカウンター席に座らせると、牛乳の味を確認。
さっそく調理に入る。
「こういう形で、牛乳を使ってみようと思います」
出来上がりは、早かった。
「こっ、これは……っ!」
「パングラタンですねっ!」
達也が陶器製の丸い器をカウンターに置いた瞬間、まず目に飛び込んでくるのは、表面のこんがりとした焼き色。
四角く切った厚手の食パンの角は、カリッと乾いた焦げ目がついている。
そしてパンたちの隙間では牛乳とバター、小麦粉で作ったベシャメルソースがふつふつと呼吸を繰り返す。
焼けたチーズの表面に見える、琥珀色の焼け跡がたまらない。
「牛乳を使った料理か! これはうまそうだ……っ!」
「はいっ! とってもおいしそうです!」
グラタンという文化がまだなく、パンは硬くなったらスープに沈めるだけのブリティシア。
パンと牛乳、さらにチーズを使って焼いた料理なんて、もちろん見るのも初めてだ。
バターの甘い香りと、焼けたパンの香ばしさ。
その奥に感じる、牛乳のやわらかな甘みとチーズの塩気。
ミルクの共演が生み出す独特の匂いは、最高だ。
「どうぞ」
「……ごくり」
見とれてしまっていたエドモンドがスプーンを入れると、表面のチーズがパリッと割れ、その下からとろりとした白いソースが顔を出す。
口に運ぶと最初に来るのは、焼けたパンの香ばしさとチーズの塩気。
そのすぐ後ろから、牛乳の甘みを含んだベシャメルソースのまろやかさがやって来て、舌を包み込む。
パンの外側はカリッとして香ばしく、塩胡椒で仕上げたソースを吸った内側は、とろけるように柔らかい。
噛むたびに、じゅわっと温かい旨みがにじみ出る。
硬軟二つの食感が、交互にやって来るのがたまらない。
そして最後に喉奥に残るのは、チーズの余韻と牛乳のやさしい甘みだ。
「こんなにうまい料理が、牛乳で作れるのか……」
思わず感嘆してしまうエドモンドだが、達也の狙いはもう一つある。
「こちら、ミルクティーです」
「……これもまた、いい香りだ」
カップを取った瞬間に立ち昇るのは、紅茶と温めた牛乳が溶け合って生まれる柔らかな香り。
ひと口含むと、まず牛乳の甘さが口内に広がった。
そのすぐ後に、紅茶の深いコクとほのかな渋みが追いかけてくる。
牛乳はその甘みで茶葉の渋さを包み込み、紅茶の香りが牛乳の甘みを引き締める。
砂糖の贅沢な甘さに、牛乳そのものの自然な甘みが溶け合えば、残るのは穏やかな余韻だ。
「はぁ……」
優雅にして優しい一杯に、思わずもれる吐息。
「おはようございます」
「マリアさんっ」
するとそこにやって来たのは、『みけ』の仕事にも慣れてきたマリアだった。
「良かったら二人も食べてみて、もう一つ作ったから」
「やったー!」
「あら、綺麗な料理ですね」
マイカトラリーを手に、歓喜するエマ。
その隣に、マリアも腰を下ろす。
「今日はミルクティーと、この牛乳を使った料理をお勧めにしていきたいんだ……どうかな?」
「とってもおいしいですっ!」
「ええ、本当においしい」
仲良く並んで、一つのパングラタンを食べるエマとマリア。
にこにこのエマに、マリアも思わず「うふふ」と笑みをこぼす。
「よし、それじゃあ開店だ」
開店時間が来れば、自然と客が集まり始める。
牛乳が無駄にならないよう、祈るエドモンド。
だが営業が始まると、すぐにその心配も無くなってしまう。
エマとマリアのお勧めもあって、達也のパングラタンとミルクティーは飛ぶように売れた。
◆
「ミルクティー、最高だよなぁ……!」
「本当だね」
工員のハリソンとトーマスは、昼食のお供にミルクティーを選ぶようになった。
「紅茶がまろやかになる上に、腹持ちまで良くなるからな」
工場長オリバーも、深くうなずく。
労働者にとって、『腹持ち』は大きなポイントだ。
そのうえ硬水の使用もあって渋くなりがちな紅茶が、飲みやすくなるとあれば選ばない理由がない。
エールからストレートティー、そしてミルクティーへと人気飲料は移り変わったようだ。
「エマちゃん、ミルクティーをよろしく」
「はいっ!」
「マリアさん、ミルクティー三つ」
「はい、少々お待ちください」
「こっちも二つ頼む!」
「こっちもだ!」
「あらまあ、大人気ね」
すっかり大人気となったミルクティーは、その需要を爆発的に上げた。
すでに各所で求められており、その中でも特においしい『みけ』は大忙し。
「本当に、すごいわ……」
『みけ』に始まった流行を目の当たりにして、マリアは感嘆する。
そして人気が爆発すれば、必然的に供給も大幅に上昇。
その勢いはすさまじく、牛乳専用の早朝列車『ミルクトレイン』が走り出すほどになった。
そうなれば当然、価格も下がる。
安くて新鮮で安全な牛乳が毎日届くようになったことで、自然と『薄めた牛乳』は売れなくなり姿を消した。
マズくして飲む子供の飲料は、その役目を変えたのだ。
「いらっしゃいませーっ!」
「いらっしゃい」
込み合う店内にやって来たのは、酪農家のエドモンド。
「ミルクティー、大人気ですよ」
達也の言葉に、エドモンドは店内をあらためて見回してみる。
「……稼げるようになったこともうれしいが、皆がこんなに牛乳を楽しんでくれていることが、何よりうれしいよ」
店内では誰もが、楽しそうにミルクティーを口にしている。
「……ありがとう、店主」
「いいえ」
うれしそうにするエドモンドに、思わず達也も口元をほころばせる。
上流階級が飲み始めてから、実に百年遅れで広まったミルクティー文化。
こうしてブリティシアでは、この後二百年経っても紅茶と言えばミルクティーを指すようになるほどの、定番商品になっていくのだった。
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毎冬必ず何本か、自販機のロイヤルミルクティーを飲んでいます!
お読みいただきありがとうございました!
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