66.没落令嬢とトマトクリームスープパスタ
「水彩画も、ずいぶん上達したのねぇ」
「これはそろそろ、個展の準備が必要かな?」
高級住宅地リッチモンゾに建つ、一軒の上品な邸宅。
娘の描く絵を見て、フローリス夫婦が満足そうに笑う。
「うふふ、ありがとう」
マリアも一息ついて、美しいカップで紅茶を一口。
アフタヌーンティーの翌日も、フローリス家には穏やかで瀟洒な時が流れていた。
「旦那様、お客様です」
やって来たのは先日のお茶会でポットを割り、紅茶でカーペットを汚してしまった使用人。
マリアの励ましによって、その片付けを完璧に遂行してみせた。
「ああ、すぐ行くよ」
そんな使用人の言葉に応えて、父が玄関へと向かう。
そこには古い書類カバンを抱えた、黒い外套の男が一人。
「失礼いたします。アルビオ鉄道保険の代理人としてやって来ました」
「どうしたんだ、一体」
「昨夜の嵐で機関車が脱線事故を起こしまして、列車火災によって貨物が焼失してしまいました」
「なんだって!?」
「積荷のシルクは全損、回収は不可能です」
極東から輸入するシルクは、一箱で家が建つほどの高級品。
そして今回は、大口の取引だった。
血の気が一気に引いていく。
「だ、だが、保険があるはずだ! そのために来たのだろう!?」
高額商品の輸送、当然保険には加入していた。しかし。
「誠に申し上げにくいのですが、当社は本日をもって破産、清算手続きに入りました。よって今回の損害に対する補償はありません」
男はわずかな申し訳なさと、職務の冷たさが混ざる声でそう告げた。
「そんな……」
積荷が失われても、保険会社による保証はなし。
最悪の事実を聞かされた父は、フラフラと後退して壁にもたれかかる。
それから力なく座り込むと、ゆっくりと天を仰いだ。
「まさか、売ることになるのか……? この家を」
◆
とある上流階級の邸宅。
夫人が唐突に開いたティーパーティによって、使用人たちは慌ただしさの中にあった。
並んだ豪華な菓子と料理はまさに、プライドの塊である夫人の見栄の賜物だ。
「あなたも急いで! 紅茶の提供が遅れたら、奥様がお怒りになるわ!」
「はい……!」
緊張感のある声に、メイド服姿のマリアはポットを手に慌てて客人のもとへ向かう。
この邸宅に来て、まだ三日目。
『見て覚えろ』という習慣が強いメイドの世界ということもあり、ルールの指導は行き届いていなかった。
「っ!?」
客の前を横切らない、主人の背後を通らない等、上流階級の邸宅でメイドは『見えない存在』としての動線が決まっている。
しかしマリアは、そのことを知らない。
立ち上がった客の一人とぶつかった拍子に、手からポットが滑り落ちた。
割れて中からあふれた紅茶が、カーペットに広がっていく。すると。
「おいおい、大丈夫なのかい?」
「くすくす、躾が行き届いていないようですね」
あがった笑い声に含まれた嘲りの色に、誇り高い夫人は即座に顔を真っ赤にする。
「……あなた、ちょっといい?」
そして、マリアを一人呼び出した。
「悪いけど、あなたはうちに置いておけないわ」
「……っ」
友人たちの前で恥をかかされたと感じた夫人は、そう言い放った。
「前の家では、雇い主の病気でメイドの数を減らすってことでの解雇よね? きっと、そういう運命なのよ」
たったそれだけの言葉で、決まってしまった解雇。
突き出されたのは、二度に渡る短期での退職と、実務経験のなさを指摘する紹介状。
新たに行ける家はもう、なかった。
「……今度こそ」
先日までの事を思い出して、マリアは大きく深呼吸。
メイドを解雇されてたどり着いたのは、常に人材不足の織物工場だった。
「お前の持ち場はここだ」
「はい」
何十台と並んだ大型の織機。
それぞれの機械には細い糸が何百本も張られており、布が少しずつ自動で織られていく形だ。
ただし途中で糸が切れたら、すぐに誰かが結んで直す必要がある。
マリアはその『切れた糸の補修係』に、回されることになった。
始まった仕事に、意識を集中する。
しばらくすると、糸が切れたことを知らせるレバーが上がった。
マリアは言われた通り、糸を結びに向かう。
「機械を止めろ! その後すぐに糸を結んで再開だ!」
監督は手信号と共に、声をあげた。しかし。
マリアは手信号の意味を教えられておらず、監督の声も機械の音に消されて聞こえない。
機械が止まる前に糸を結ぶと、生まれる『緩み』
その緩みは隣の糸にも伝わっていき、何本もの糸が連鎖する形で絡まっていく。
「え……?」
あっという間に機械が大きな異音を上げ、自動停止する。
すると周囲の機械も、次々に止まってしまった。
向けられる視線の中を大慌てで駆けてくるのは、異変に気付いた工場オーナー。
「なんだこれは……隣の機械まで巻き込まれてるじゃないか! 絡まった糸は手作業でないと直せない。これじゃ作業が何時間も止まってしまうぞ!」
するとそこに、監督も駆けつけてきた。
「どうして機械が止まるのを待たなかった!」
大きな機械音に消された声と、初めての工場仕事。
上流階級育ちのマリアには、説明が決定的に足りていない。
監督はマリアも他の労働者と同じ『経験者』だと思っていたため、この行き違いは必至だった。
「……はあ」
オーナーは止まってしまった機械をたちを見て、ため息を吐く。
「今日はもうあがりだ!」
それから作業員たちの終業を宣言。そして。
「君はもう明日から……来なくていい」
マリアの方を見ることもなく、冷たくそう言い放った。
「…………」
時はすでに夜。
追い出されるような形で工場を出たマリアは、帰り道を一人進む。
リッチモンゾを出ることになったフローリス家は、労働者街イーストエッジの境界にある、倉庫の多い区画に引っ越した。
黒ずんだレンガの古い長屋は、かつての邸宅とは比べものにならないほど狭い。
壁は隣家と共有で、きしむ扉に煤だらけの煙突。
アパート暮らしは、これまでの生活とは完全に別物だ。
マリアの父はどうにか、貨物の帳簿や取引書類の整理などを行う、鉄道会社の雑務仕事に就いた。
だが母はショックで動けず、毎日をため息と共に過ごしている。
「また明日から、がんばらないと……」
立て続けになった解雇。
マリアは、ゆっくり大きく息を吸う。
それから自分を鼓舞するように両の頬を叩いて、大きくうなずいた。
再び、歩き出す帰路。
するとその横を、一台の馬車が通り過ぎて行った。
「……っ!」
豪華な馬車の中に見えたのは、先日のアフタヌーンティーで一緒だった友人と、その父母の楽しそうな姿。
まるで壁に頭をぶつけたかのような衝撃に、大きく足がフラついた。
「きゃっ」
さらに、駆けてきた野良犬のような動物の影に驚いて、そのままその場に転んでしまう。
不様に倒れ込んだマリア。
冷たく硬い石畳の感触が、たて続けに告げられた解雇の瞬間を思い出させる。
そこに入り混じるのは、楽しかった過去の記憶たち。
にじんでいく視界。
マリアの瞳から、涙がこぼれ落ちそうになったその時――。
「大丈夫ですかーっ!?」
聞こえてきた声。
大急ぎで駆け寄ってきたのは、肩までの金髪をしたメイドの少女。
そして白いシャツに黒いエプロンを巻いた、青年だった。
「立てる?」
その場にしゃがみ込み、声をかける達也。
「……はい、大丈夫です。少し足をひっかけてしまって」
マリアはとっさに笑顔を作り、差し出された達也の手を取り立ち上がる。しかし。
「っ!?」
立ち眩みと共に、ガクリと身体が落ちるような感覚。
「ごめんなさい……今日は食事をとる余裕がなくて……」
慣れない立ちっぱなしの仕事に、重い荷物の運搬、そして工場ならではの暑さとの戦い。
思った以上に、身体に負担がかかっていたようだ。
深呼吸して、どうにか立ち上がったマリア。
その弱々しい笑顔を見て、達也とエマがうなずき合う。
「良かったら、店に寄って行かないか? 残った食材で良ければ何か作るよ」
「ぜひっ」
「で、でも……」
その日最後の客を見送った、直後だった二人。
笑顔のエマはマリアの手を引いて、そのまま『みけ』の店内へ。
カウンター席に案内したところで、達也が問いかける。
「賄ついでだから、代金はいらないよ。何か食べられないものはある?」
「……いいえ」
それだけ聞いて、さっそく調理に入る。
「達也さんは、とってもおいしい料理を作ってくれるんですよ! 食べたらきっと、元気も出ますっ!」
そう言って、エマが笑う。
程なくして達也は、一つの料理を完成させた。
「エマちゃん、おねがい」
「はいっ! こちらトマトクリームスープパスタになりますっ!」
エマが出来立てのパスタを、マリアの前に置く。
「……っ」
初めての料理に、一瞬で心を奪われた。
海の様に青いラインの入った、やや深めの白皿には小山を作るパスタ。
その天辺に見える拍子切りのベーコンたちを、鮮やかな緑のパセリが飾っている。
そんなパスタの山の麓に広がるのは、白橙色のトマトクリームスープ。
湯気の向こうにふわりと立ち昇るトマトの酸味と、牛乳の柔らかな甘さが溶け合った香りが心地良い。
「いただきます」
まずは、スープを一口。
「まあ……」
舌に触れたのは、トマトの酸味。
しかしその味は決して鋭くなく、牛乳の甘みと少量だけ加えた生クリームのコクに包まれている。
トマトの味わいとクリームの優しさが生み出すまろやかさ、程よい塩味は見事なものだ。
濃厚なのに重たくないため、スープだけでもドンドン飲めてしまう。
「……なんて優しい味」
そのおいしさに、思わずもれる吐息。
トマトの酸味に刺激された食欲が、マリアの手をパスタに向けさせる。
スープを吸った麺は表面がほんのりと赤く染まり、噛むたびにトマトの旨味と、牛乳のまろやかさが広がる。
もちっとした食感のパスタと滑らかなスープの相性は抜群で、すする度にトマトとクリームが織りなす豊かな風味を感じさせる。
また炒めたタマネギが入ることで、その甘みがさらに多層的なものとなっているのが最高だ。
そしてベーコン。
その旨味と塩気で全体を引き締めているだけでなく、脂はスープを豊かになものにする。
噛んだ時のしっかりとした食感は、まるで宝物のようだ。
濃厚でありながらくどさはなく、食べ進めるほどにスープの奥に隠れた野菜や肉の旨味まで感じられる。
それは単純なトマト味、クリーム味だけでは終わらない、奥行きのある味わい。
さらりとしたスープは疲れた身体に染み渡り、冷え切った胸の奥に火を灯す。
「とても、おいしいです……」
上流階級でも、知らない者の方が多いパスタ。
トマトもブリティシアではまだ広がっていないため、いよいよ未知の料理となる。
それでも最後の一滴まで残さず食べ尽くしたマリアは、その温かさに安堵の息をついた。
「食事は、ちゃんと摂った方がいい」
そんな達也の言葉に、こくりとうなずく。
「はい……少しでも節約になればと思って……」
「そんなに、困ってるんですか?」
心配そうなエマの問いに、マリアは静かに語り出す。
「先日の嵐でお父様の会社が大きな被害を受けて、家を出ることになったのです。それからいくつかの職場で働かせてもらったのですけど……役には立てなくて」
急な労働と、節約のための栄養不足。
重なった二つの問題に、マリアは追い込まれてしまった。
「それは、大変だったな」
「……でも、お父様やお母様には色んなものを教えてもらったり、習い事をさせてもらったりしました。だから今度は私もがんばりたいんです。それでいつか……二人を楽にできたらと思っています。おいしい料理を食べさせてもらって元気が出たので、また明日からお仕事探しがんばります」
マリアはそう言って、ほほ笑んでみせた。
そんな姿を見て、達也はエマに視線を送る。
そしてエマがうなずいたのを見て、マリアに問いかける。
「そういうことなら……うちで働いてみる?」
「え……っ?」
まさかの申し出に、見せる驚きの表情。
「最近忙しくなってて、人手が欲しかったところなんだ」
「そうなんですっ」
エマも、大きくうなずく。
「……私でいいのでしょうか」
しかしマリアは、続いた失敗を思い出して躊躇してしまう。
「自分を育ててくれた人への恩返し……すごく良いと思う。そして何度失敗しても、さっきみたいに笑うことができる君のような人が、今の忙しい『みけ』には必要なんだ」
「わたしもそう思いますっ!」
そんな達也の言葉に、さらに大きくうなずくエマ。
「……っ」
するとマリアは一度、言葉を詰まらせた後。
「マリア・フローリスと申します。よろしく、おねがいします……っ」
深く頭を下げて、もう一度その優しい笑みを見せた。
「東雲達也、こちらこそよろしく」
「エマ・グリーンですっ! よろしくおねがいしますっ!」
こうしてキッチン・みけに、新たな仲間が加わることになった。
◆
「いらっしゃいませーっ!」
「いらっしゃいませ」
『みけ』のドアを開けると聞こえる元気な声と、優しい声。
「ま、間違えました!」
慌てて店の外に出て首を傾げるのは、荷受人夫のアラン。
「なーにやってんの、間違えてねえって」
そう言って今度は、工場組のハリソンがドアを開けた。
「……あれ?」
見慣れぬ上品な空気をまとった店員に、続けて首を傾げる。
「こちら新しく『みけ』で働くことになった、マリアさんですっ」
「よろしくお願いいたします」
エマの紹介に、美しい所作で頭を下げるマリア。
「幻覚じゃねえよな……?」
これには思わず、ハリソンも目元をごしごしと擦る。
「こちらのお席へどうぞ」
「はっ、はい! 失礼いたします!」
マリアの穏やかで優美な立ち回りに、荒っぽいのが日常の荷受人夫アランは緊張気味だ。
「そんなに緊張しなくても」
そんなアランの姿を見て、笑うトーマスたち工員組。
「だが気持ちは分かる。あの上品な挙動はまるで女神のようだ。優美な女性は『みけ』になかったものだからな」
「達也さん、オリバーさんのフィッシュアンドチップスは小魚でお願いしますっ」
「はいよ」
「待ってくれ! 私が言いたいのは、エマちゃんとは違う良さを持っているという事なんだ!」
「うふふ」
慌てて弁明を始めるオリバーに、笑いが起こる店内。
最近の達也とエマは、忙しさに目を回していた。
しかし今回は仕事の説明を、二人からしっかり受けることができたマリアは、見事な接客を見せてくれている。
迅速でありながら優雅。
そんな立ち回りのおかげで、『みけ』の仕事に余裕が生まれ出した。
「エマちゃん、マリアちゃん、提供よろしく」
「はいっ」
「はい」
元気なエマと、上品なマリア。
二人の看板娘が『みけ』を活気づける。
そして今日もキツネは、得意げな顔をしながら達也たちを見守っていた。
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