65.マリア・フローリスとレモンドリズルケーキ
ロンドール南西部にある、緑豊かな高級住宅街リッチモンゾ。
テームス川沿いの緩やかな丘の上に、淡いクリーム色の邸宅がある。
左右対称の二階建てに、大きな窓が規則正しく並ぶその家の外壁には蔦がわずかに絡み、季節によって色を変える。
川へ続く庭の芝生は柔らかく、白いバラの生け垣が美しい。
「見事なものだね」
ピアノの練習を続けていた娘に声をかけたのは、父である紳士。
「ありがとうございます」
演奏を終えた二十歳ほどの女性は、穏やかな笑みで応えた。
長く淡い金色の髪を、左右で三つ編みにして後頭部で結んだ姿が優美な彼女の名は、マリア・フローリス。
水色ドレスに、白のレースという装いが美しい。
彼女は生まれも育ちも上流階級という、根っからのご令嬢だ。
「次の演奏会のチケットは、争奪戦かな?」
「うふふ、お父様ったら」
父の冗談に、笑って応えるマリア。
いくつもの習い事を兼ねる彼女は、振る舞い一つをとっても見事なものだ。
「マリア、お友達が来ているわよ」
やって来たのは、上品な所作が美しいマリアの母。
「あらまぁ、もうそんな時間なのね」
「紅茶の用意ができているから、早く行っておあげなさい」
「はい」
公爵夫人ヨハンナが始めたアフタヌーンティーは、とある料理人の登場で大好評を博した。
それによって加速した流行は、一気にフローリス家のもとまで届いていた。
定番より少し遅く、夕刻前から始まる簡易的なアフタヌーンティー。
応接室に向かったマリアは、友人の令嬢たちを見つけると、後ろからそっと接近していく。
「こんにちはっ」
その両肩に、手を乗せての挨拶。
「マリアさん!?」
突然背後に現れたマリアの思わぬ砕けた行動に、驚く友人。
もちろん皆、上流階級の娘たちだ。
「うふふ、ようこそおいで下さいました」
そんなマリアの姿を見て、皆楽しそうにする。
「こちらへどうぞ」
床には薄い青と、金糸の織り模様が美しいカーペット。
暖炉の上には、家族の肖像画と小さな花瓶が置かれている。
白いクロスの上に銀器が並んだ、瀟洒なフローリス家の応接室。
マリアを入れて六人で行うお茶会は、本来のアフタヌーンティーの人数にほど近い。
淡いブルーグレーのソファに腰を下ろすと、振る舞われる紅茶。
さっそく会話に、花が咲き始める。
「聞いてよマリアさん! 今日もまた先生に怒られてしまったの。ピアノが全然うまく弾けなくて……!」
隣の席の友人は、悲しそうな表情でため息をつく。
「分かるわ、難しいものね。でも、私はがんばっているのを知っているし、何より……間違いなく上達しているわよ」
「マリアさん……ありがとーっ!」
「あらまぁ」
先生に怒られてきたばかりの友人は、マリアの手を取りブンブンと振ってよろこぶ。
「そう言えばミランダさん、あなた先日の舞踏会でハミルトン家の次男と仲良くしてたわよね?」
「えっ、そうなの!?」
一方隣のテーブルから聞こえてきたのは、社交界の話。
上流階級の出会いの場である舞踏会の話となれば、恋愛の話は切って離すことができない。
「ちょっとやめてよ、私はただ一緒に踊っただけなんだから」
「でもあなた、あの方に二度も誘われていたわ。同じ日に二度もなんてことある?」
「違うんだって! やめてよーっ!」
そう言いながらも楽しそうにするミランダ、どうやら満更でもないらしい。
「ねえねえ、ところでマリアさんは最近どうなの? 何か面白い話はないの?」
すると、不意にマリアに話題が投げかけられた。
この話の流れ。
もちろんその場にいる全員が、一斉にマリアの方に視線を向ける。
「私は先日、機関車に乗ってきたの。とっても楽しかったわ」
「きゃあ! それって……どなたと?」
当然のように、ぶつけられた質問。
友人たちはいよいよ身を乗り出して、マリアの返事を待つ。
「家族でだけど……?」
「「「はあ……」」」
そして、全員が一斉にため息を吐く。
「そうじゃないでしょう! マリアさん!」
「どうしてそうなっちゃうのよーっ!」
「……あら?」
マリアにしてみれば、走り出したばかりの機関車に乗ったことは、十分面白い話のつもりだ。
予想外な友人たちのリアクションに、頬に手を当てながら首を傾げる。
楽しい会話で、盛り上がるお茶会。
そこに一人の使用人が、様子をうかがいに来た。
どうやら、主役の準備ができたようだ。
「そろそろ、お菓子をいただきましょうか」
そんなマリアの言葉に、さっそく使用人が準備を開始する。
応接室に持ち込まれてきたのは、レモンドリズルケーキ。
ブリティシアの伝統的な、人気菓子の一つだ。
パウンドケーキのような黄金色に焼けた生地の表面に、レモンのシロップを塗って染み込ませる。
その上から、粉砂糖にレモン果汁と少量の水を混ぜて作った、純白のアイシングをかけていく。
するとすぐに固まり、シャリッとした薄い衣のようになってケーキを包み込む。
最後に鮮やかなレモンの薄切りとミントを乗せて、明るさと爽やかさを飾りつけたら完成だ。
「素敵……!」
「なんて綺麗なのでしょう!」
その爽やかな美しさに、さっそく歓声を上げる友人たち。
使用人が速やかにカットして、各令嬢のもとへ届ける。
「それでは、いただきましょう」
マリアの言葉に、皆でさっそくひと口。
「「「まあ!」」」
かじった瞬間まず、アイシングがシャリッと割れる。
粉砂糖とレモン果汁で作られた白膜は、舌の上でスッと溶け、レモンの香りが立ち昇った。
そして程よく上品な甘みと共に、しっとりとした生地の柔らかさが続く。
焼きたてのうちに染み込ませたレモンシロップは、噛むたびに広がり爽やかな酸味を広げる。
皮のほろ苦さ、レモンピールの柔らかな甘み、そして果汁の鋭い酸味。
レモンの三つの表情が、ひとつのケーキの中で層になって押し寄せてくる形だ。
しっとり生地のバターが放つ豊かな甘さと一緒になれば、頬をほころばせずにはいられない。
「とてもおいしいです……っ!」
「本当ですね! 純白のケーキにレモンとミントの鮮やかさが素晴らしいです!」
飾られた薄切りレモンは、ミントと共に目にもうれしい。
全体として、甘さより爽やかさが主役となるこのケーキ。
その相棒となる紅茶は、シンプルなダージリンだ。
最近ヨハンナのお茶会で大きな話題になった一杯をストレートで飲むと、レモンの香りがさらに花開く。
「はあ……」
思わずもれる、感嘆の息。
「なんて素敵な、アフタヌーンティなのでしょう」
「お菓子から紅茶まで、最高ですね」
「うふふ、ありがとう。お代わりはいかが?」
最高の盛り上がりを見せる、アフタヌーンティー。
見事なもてなしに歓喜する友人たちの前に、使用人がやって来る。
そしてカップに、追加の紅茶を注ぎ終えたその時――。
「「きゃあっ」」
あがった悲鳴。
使用人が手を滑らせて、紅茶入りのポットを落としてしまった。
割れたポットからは残っていた中身がこぼれ出して、カーペットに染みを作っていく。
「もっ、申し訳ございませんっ!」
マリアの名で開かれたアフタヌーンティの、楽しい空気は一変。
割れた見るからに高級なポットは無残な姿を残すのみで、気まずそうに息をつく令嬢たち。
当然、場に強い緊張が走り出す。
「あらららら」
そんな空気を破るようにして上がったのは、思わぬ朗らかな声だった。
すぐに立ち上がったマリアは、まず一番近くにいた友人のもとに、ヒザを突いて問いかける。
「ケガはない?」
「ええ、私は大丈夫よ」
来客の無事を確認すると、続けて使用人の方を見る。
「あなたは?」
「私は、大丈夫です! で、ですが……! マリア様のポットが……!」
割れたポットと汚れたカーペットを見て、顔を青ざめさせる使用人。
マリアは立ち上がると、使用人の目を見つめる。そして。
「元ランドリーメイドの、力の見せどころね」
そう言って、笑ってみせた。
「……は、はいっ!」
思わぬマリアの言葉に、気合を入れる使用人。
元々は洗濯を始めとした仕事を中心に行うランドリーメイドから昇進したその使用人は、汚れ物の片づけ方に覚えあり。
さっそく意気込んで、後始末を開始する。
「マリアさん、なんてお優しいんでしょう」
「本当、素敵ね」
悪くなりかけた空気はむしろ、さらに穏やかなものとなった。
「うふふ、紅茶は私が注ぐわね」
「それなら私が……!」
「いいの、今日は皆お客さんなのだから私にやらせて」
そして使用人に代わって、もう一つのポットを手に取ったマリアは、自ら紅茶を注いで回る。
その立ち振る舞いの美しさに、思わず感嘆してしまう友人たち。
重なる笑い声、昇る紅茶の湯気、すべてが穏やかで美しいその空間。
マリアの機転一つで、アフタヌーンティーは再び楽しく盛り上がったのだった。
夕刻の空に、輝き始める星々。
遠くで、雷鳴が小さく響いた。
この夜ブリティシアの海には――――大きな嵐が迫っていた。
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アイシングはクッキーの表面か、ミニスナックゴールドにかかってる以外で見かけませんね……!
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