53.ローズベリー家の慈善事業とチキンパイ
「おいしそうですねぇ……っ」
エマは両手にフォークとスプーン状態で、満面の笑みを浮かべた。
心地の良い晴れ間を見せるロンドール。
高級住宅街であるメイフェリアにあるローズベリー家の庭は、今日も美しい。
瀟洒なテーブルに並ぶエマとアンナ・マリー、そしてローズベリー家の娘シャーロット。
ケーキと揚げ物ばかりを食べ続けたことで始まった肌荒れも、今ではすっかり良化。
見事な社交界デビューを飾ったところだ。
「エレノア様は、どうされたのでしょうか」
「お父様と何やら話をしていましたし、お仕事の話でしょう」
「……エマ」
「はっ!?」
テーブルに並んでいるのはチキンパイ、レモンタルト、そして紅茶。
『お預け』をされている犬の様に、涎がこぼれそうになるエマを、嗜めるアンナ・マリー。
そんな二人の姿に、シャーロットが笑う。
エマは今日もローズベリー家に呼ばれる形で、昼食をご馳走になりにきていた。
「シャーロット様、用意は私が」
「それくらい自分でやるわ。まずはエマの分ね」
「はいっ!」
用意を代わろうとしたアンナ・マリーを制して、皿を取るシャーロット。
さっそくパイにナイフを入れる。
まずは半分に切り、続けて目測で角度を測り出す。
最初に決めた位置から少し角度を大きくすると、エマがうれしそうにほほ笑んだ。
さらに大きくすると、今度はパアアアアと目を輝かせ始める。
「もしかして……」
一転シャーロットが今度は角度を小さくすると、エマはしゅんとする。
「くすくす、本当にエマは面白いわ」
「……すみません」
そんなエマの様子に、幼馴染であるアンナ・マリーはちょっと恥ずかしそうに頭を下げる。
シャーロットはそれが面白くて、また笑う。
大きめに切ったパイをエマの皿に取り分けると、そのまま続けて全員分を用意。
するとエレノア婦人が、遅れてテーブルにやって来た。
「遅くなってしまいましたわね、始めましょう」
席に着くと、まもなく昼食会が始まる。
「いっただきまーす!」
『お預け』が解除された瞬間、即座にエマは「まってました」とばかりにチキンパイに手を伸ばす。
薄い琥珀色から濃い金色へと変わっていく焼き色は、なんとも食欲をそそる。
ナイフを入れるとサクッ、パリッと乾いた音が鳴り、中のクリームソースが刃にまとわりついてきた。
バターの香りに混ざる、焼いた鶏肉の香ばしい匂い。
その奥にはマッシュルームの湿った香りと、タイムやパセリの清涼感が隠れている。
「ふああ……っ」
口に入れた瞬間やって来るのは、皮の外側のサクッと感と内側のしっとり感。
二段階の食感に続いて、クリームソースのまろやかな塩気と甘みが舌の上に広がった。
ソースは重すぎず、溶け込んだ鶏の旨味が、マッシュルームの風味と共にやって来る。
やわらかな繊維を持つ鶏肉の小さな塊を、歯で押しつぶす感覚がたまらない。
「おいしいですっ!」
最後に残るのは、バターの香りとハーブの爽やかさが混ざったやさしい余韻。
脂っこさはほとんどなく、紅茶をひと口飲むと、次の一口が欲しくなる。
そのままエマは、大喜びでチキンパイを完食。
「お次は、こちらっ!」
輝く目を、レモンタルトへと目を向ける。
表面の淡いレモンイエローが、とても美しいその一品。
タルト生地は、焼き色のついた小麦の粒子がキラリと光るほどにサクサクだ。
レモンならではの鋭い柑橘の香りと共に、バターの甘くて温かい匂いがやってくる。
我慢できずに一口。
その瞬間レモンクリームがとろりと舌に広がり、鋭い酸味が一気に立ち上がった。
「んんーっ!」
しかしその酸味は刺すようなものではなく、キュッと締まるような感じだ。
レモンの皮のほろ苦さがほんのり混ざり、甘さとの境界線が見事に演出されている。
遅れてタルト生地のバターが、その香ばしさとほのかな甘みで酸味を包み込む。
酸味から甘み、そして香ばしさへという三段階の変化がたまらない。
舌の上にはレモンの微細な苦みと清涼感だけが薄く残り、バターの余韻はすっと引いていく。
こちらは紅茶を合わせることで、その渋みがレモンの酸味をさらに際立たせている形だ。
「おいしいですねぇ……」
「エマは本当によく食べるわね」
「ふふっ、見てる方が楽しくなってくるわ」
『質素なものを食べるのが嗜み』とされる上級階級だが、その誇りの高さゆえに、もてなしの時だけはしっかりと手をかける。
終始ご機嫌なエマを見て、アンナ・マリーとシャーロットが顔を見合わせ笑い合う。
「はぁ……」
華やかで楽しい昼食の時間。
ため息を吐いたのは、エレノア婦人だ。
「どうされたのですか?」
そんな姿を見るのは初めてで、アンナ・マリーが思わず問いかける。
「来週の慈善事業のことが気になっているのですわ。次は私も炊き出しの現場に出て、しっかり顔を見せて来いと」
「そういうこと……」
話を聞いたシャーロットは、すぐに背景を理解する。
『ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』の精神の下で行われる慈善事業は、上流階級における責務となっている。
またそれは、家名に関わる問題だ。
基本的には夫が後援者として名前だけを連ね、実際の運営、企画、現場の采配は妻が行うという形となる。
女性の公的活動は制限されていたが、慈善活動は『女性らしい徳性』として社会的に容認されやすかった。
夫の名誉を高めつつ、妻が社会的影響力を持つことができる、数少ない領域となるのである。しかし。
「苦手だものね、現場で指揮みたいなの」
シャーロットはこれまで母が準備の方に力を入れ、表立っての行動は使用人たちに任せているのを知っていた。
「しっかり顔を見せて、ローズベリー家の影響力を広げて来るようにと」
どうやら今回は夫に直接、そのような指示を受けたようだ。
「……憂鬱ですわ」
紅茶を一口飲み、大きくため息を吐くエレノア婦人。
結局そのまま、この日の昼食会はお開きとなった。
「エマ、準備できたわよ」
今日もエレノア婦人は、馬車を用意してくれていた。
同席しての送迎は、もちろんアンナ・マリーだ。
見送りの使用人たちや婦人と共に、エマは玄関を出る。
そして三階の窓から笑顔で見送るシャーロットに、手を振りながら馬車に乗ろうとするエマに、アンナ・マリーが「もう」と息をつくと――。
「あらローズベリーさん、これはまた奇遇ですね」
先代からのライバルであり、隣家に住む上流階級であるポートマン家の婦人が現れた。
彼女は先日の『恩師へのおもてなし米料理対決』でエレノア婦人と激しい火花を散らし、エマの持ち込んできた『チキンドリア』に敗北したばかりだ。
「聞かせていただきました。なんでも来週『学校』で、炊き出しを行うのだとか」
以前の対決のことなど忘れているかのような、とても上品で優雅な笑みを浮かべて、エレノア婦人の前へやってくる。
「それが何ですの?」
「実はわたくしたちも、同日に炊き出しをさせていただくのです」
「……っ!」
「まさかこのような形になってしまうとは、思いもしませんでした。本当に申し訳ございません」
そう言ってポートマン婦人は、全く悪びれる様子のない、わざとらしい謝罪をして見せた。
「こちらは準備も完璧ですし、そちらには閑古鳥を鳴かせることになってしまうでしょうから」
そう言って笑う、ポートマン婦人。
もちろん開催日の一致は、偶然ではない。
ポートマン婦人は、わざとローズベリー家の開催日にぶつけてきたのだ。
『ノブレス・オブリージュ』の精神で行われる慈善事業。
しかしプライドの塊であるブリティシア上流階級の間では、慈善活動は同時に名誉、政治力、社交的地位を競う場でもあった。
同じ日に慈善イベントをぶつけて、豪華な食事を提供する。
学校ならより多くの子どもを集め、新聞に載るような映える演出をすれば、当然それだけの評価を受けることになる。
もちろん同日に近隣で開催するとなれば、両家は『比べられる』ことになるだろう。
どちらの家格が上か。
こうした『慈善の競争』は、史料にも残っているほどだ。
どうやらポートマン婦人は挑発をするために、エレノア婦人が家から出てくるのを、今や遅しと待ち構えていたようだ。
「どちらが優れているのか、世間の皆様がしっかりと判断してくれそうですね」
「の、望むところですわ」
エレノア婦人には、自信のない時に『噛む』クセがある。
気づいたポートマン婦人は、わざわざ近寄って来てささやく。
「今度は貴方だけではなく、ローズベリー家の皆さん総出で恥をかくことになりそうですね。さぞ惨めな思いをすることになると思います……ご愁傷様」
そして余裕たっぷりの笑みと共に、踵を返す。
「それでは失礼いたします。おーほほほほほほっ!」
ポートマン婦人は、自身が影響力を持てる慈善事業に率先していくタイプだ。
現場での経験も当然あるため、勝利を確信した笑い声を残して自宅へと帰っていく。
「…………っ!」
残されたエレノア婦人は、怒りに拳を震わせていた。
「閑古鳥? 冗談ではありませんわっ!」
そして大地深くから響くような、ドスの利いた声で使用人たちに告げる。
「準備は完全なものにしておきますわ! 今回は私も現場に立つのですから絶対に、絶対に何とかしなさいっ!! もし負けたら……その場で全員解雇ですっ!!」
「「「っ!?」」」
まさかの展開に、唖然とする使用人たち。
やはり隣家とのことにだけは、その激情がどうしても大きく燃え上がってしまうエレノア婦人。
足音も荒く家へと戻って行きかけて、振り返る。
「アンナ・マリー以外!」
それでも、エマとの約束は覚えていたようだ。
あらためてそう言い放つと、憤慨の面持ちで部屋へと帰って行ってしまった。
「そんな……」
またも直面する、使用人たちの危機。
今回はアンナ・マリー以外全解雇という、まさかの事態だ。
その視線は自然と、馬車に片足をかけたままでいたエマに向かう。
「エマさん!」
「どうか! どうか私たちを助けくださいっ!」
「……分かりました、少々お待ちくださいっ!」
料理人であるアルフレッドを始めとした使用人たちの懇願に、エマは大きくうなずいて馬車へ乗り込む。
そしてアンナ・マリーと共に、そのまま『みけ』へと帰還。
「達也さんっ! 大変なことになっちゃいました!」
「大変な事?」
いぶかしそうにする達也に、エマとアンナ・マリーはその詳細を語る。
「場所はロンドールの学校、エマちゃんたちが作れる炊き出し向けの料理か……」
すると達也は一瞬考えるような表情を見せたが、すぐに「よし」とうなずいた。
「『これ』だったらいけるんじゃないかな。せっかくだから二人で覚えていくといい」
「「はいっ!」」
短く応えて、キッチンへ入る二人。
達也はいつも通り、軽快な動きで調理を開始した。
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