52.不運な一日とまぐろの山かけ
夜のロンドールを、一人の男がため息と共に歩いていた。
コリン・ウィットローは、20代後半のレンガ工。
「昼休みが遅くなったせいでサンドイッチが買えなくて、同僚のミスが俺のせいになって怒られて、それはそれとして自分もミスに気づけなかったから、帰りが遅くなって……」
羅列するのは、今日起きた嫌な事。
まるでこの世界が自分だけを攻撃しているかのように、続いた不運にあらためて肩を落とす。
「一体、俺が何をしたっていうんだ」
「どけ! 邪魔だっ!」
「うわっ!?」
何かの職人だろうか、大きな荷物を抱えた男が角から飛び出してくると、そのまま衝突。
「痛てててて……」
跳ね飛ばされたコリンはそのまま、石畳の上に尻もちをつく。
一方駆けてきた男は振り返るすらもなく、そのままいなくなってしまった。
「……なんなんだよ」
踏んだり蹴ったりという言葉が、これだけ合う日もなかなかない。
よろよろと立ち上がったコリンは、意気消沈したまま道を進む。
こんな日はもう、適当にパンでも詰め込んでさっさと寝てしまう他にない。
「この時間なら、あの屋台のパンがいいかな」
比較的安くて、味も悪くない。
そんな店を目がけて一直線。
「パンとチーズをセットで」
「ああ悪いね、このお客さんで最後なんだ」
「は……?」
コリンは立ち尽くす。
目の前で、まさかの売り切れ。
この屋台は通りの端にあるため、別にパンを買うなら道を戻る必要がある。
今からわざわざ戻って、この屋台より劣るものを買う気力はもう、コリンにはなかった。
「なあ、俺が一体何をしたっていうんだよ……?」
そのまま屋台通りを過ぎて、あらためて問いかけてみる。
もちろんそんな問いに、返事などなかった。しかし。
「……初めて見る店だな」
温かな光を灯す一軒の店には、得意げに笑うキツネの看板。
その楽しそうな空気に、この日ロンドールで最も不幸だったかもしれないコリンは心を惹かれた。
「いらっしゃいませーっ!」
思い切ってドアを開けると、元気なメイドが満面の笑顔で迎えてくれる。
「こちらの席へどうぞっ!」
導かれるまま、カウンター席へ。
この時間でも明るい店内には、すでに多くの客が夕食を楽しんでいた。
「どうしようかな……」
メニューは信じられないくらいに豊富で、同時に初見のものばかり。
これでマズい物なんかを引いたら、目も当てられない。
注文を真剣に悩むコリン。
その視線は自然と、付近の客の選んだ料理に向かう。
「っ!?」
そして隣の席で一人静かに食べている老人を見て、思わずギョッとする。
小鉢に入った赤身の魚は、なんと切り身のままだ。
労働者が、安い魚を食べることはある。
ただしそれはすべて焼く、揚げる、煮る、干すといった加工がされたもので、生食は完全に文化圏外だ。
ブリティシアでは生肉や生魚は消化に悪く、病気の原因になるという考え方が一般的。
不衛生、危険、時には野蛮とまで言われるほどだった。
「でも……気になる……」
コリンがつぶやくと、老人はエール片手にニヤリと笑う。
そしてうまそうに一口、また一口とまぐろを口にする。
それから『みけ』の黄金エールを飲んで、大きく息をついた。
その姿から、目が離せなかった。
「……決めた」
今日はここまで、驚異的な不運の連続だった。
「こうなったらもう、後は野となれ山となれだ! 行くところまで行ってやるよ! 持って行けよ、命まで全部!」
最後に生まれた反骨精神。
コリンはやぶれかぶれで覚悟を決めた。
「ご注文はどうしますかっ?」
「この生の赤身魚を頼む!」
「かしこまりました! 少々お待ちくださいっ!」
注文が通ってしまうと、わずかに取り戻す冷静さ。
あらためて老人の方を確認するが、言葉もなくただうなずいてみせるだけ。
コリンは「やってしまったか?」と、ちょっとだけビビる。
「お待たせいたしましたーっ! こちらまぐろの山かけになりますっ!」
「……綺麗だな」
それでも、コリンは目を奪われた。
艶やかな紅色を見せるまぐろのぶつ切りには、白雲のようなとろろが乗っている。
天辺には、わずかなネギと海苔。
醤油にみりんと酒を混ぜて作ったタレをかけると、一気に食欲を刺激する光景に代わる。
「ごくり……」
達也の盛り付けによって、見た目はすごくおいしそうだ。
だが生で魚を食べるという常識に反する挑戦は、コリンの足をすくませる。
「いや! 今さら臆して何になる……っ!」
自らを鼓舞するように、息をつく。
あらためて覚悟を決めたコリンは、とろろの乗ったまぐろを一欠片、思い切って口に放り込む。
「っ!」
その瞬間、生焼けの魚に当たった時の味がフラッシュバックして、思わず全身が硬くなる。
それでも意地で噛んで、噛んで、恐る恐る舌に感じる味を確かめてみる。
「…………あれ?」
そして、思わぬ旨味の広がりに目を見開いた。
舌に触れるのは、とろろのやや重みがある滑らかさ。
そのすぐ後に、まぐろの身がしっとりとした冷たさを感じさせる。
味は驚くほどに繊細だ。
まぐろの淡い旨味が、とろろの粘りと一緒に舌の上をゆっくりと進み、醤油ダレの塩気が混ざって一つになる。
濃厚なのに、不思議と清らか。
ノドを通る瞬間には海と山の香りがふわりと立ち昇り、新鮮なわさびのピリッとした刺激がやって来る。
最後に残るのはまぐろのうまさと、山芋のほのかな甘みが溶け合った静かな後味だ。
「うまい……うまいぞこれっ!」
コリンの言葉に、隣の老人もゆっくりとうなずく。
「すごい! 魚の嫌なところが全然ない! それどころかしっかりとした旨味が、タレの味と混ざってめちゃくちゃうまいじゃないか! またこのドロッとした白いやつが出す不思議なうまさが混ざることで、味がすごく豊かになってる!」
気付けば舌が、「もっと寄こせ」と告げてくる。
コリンは次々にぶつ切りまぐろを口に放り込み、「うまいうまい」と歓喜の声をあげ始めた。
「うまそうだな……」
そこに目をつけたのが、アランたち荷受人夫たち。
「エマちゃん、俺たちにもその赤身の魚を頼む」
「あ、僕たちも」
するとそれを見たトーマスたち、工員組も続いた。
各テーブルに一つずつなのは、やはり生魚に対する恐怖があるからだろう。
「お待たせいたしましたーっ! こちら、まぐろの山かけになりますっ!」
アランとトーマスは、料理が届くや否やさっそく一口。そして。
「「うまいっ!」」
二人の声が、見事に重なった。
すぐさま互いを見合い、そのうまさに笑う両者。
見ればオリバーも「いけるぞ!」と、興奮の面持ちだ。しかし。
「……ダ、ダメだ」
「俺もだ……」
ハリソンと一人の荷受人夫は、どうしても『生魚』を感じた瞬間に『危険』という印象に支配されてしまい、ノドを通らない。
味にたどり着く前に、身体の方が拒否感を覚えてしまう形だ。すると。
「……これ、食べられないのは人生の半分損するやつだな」
「おいっ!!」
そんなアランの言葉に、荷受人夫が即座に怒りの表情を見せる。
「確かに、損をしているな」
「オリバーさんまで!」
言われたハリソンは、オリバーのチップスを盗んで口に放り込む。
「このうまさを味わえないのは、かわいそうだなぁ……」
さらにアランは、しみじみとそう言ってエールをゴクリ。
「くうううううううう――――っ!!」
世界で一番うまそうな顔をしてみせる。
「店主! こいつのエール代、五百倍にしてくれっ!」
「それなら、五百倍で」
「今回は何もしてねえのに!?」
「ざまーみろ! 調子に乗るからだ!」
「「「あははははははっ!」」」
こうして今日も、賑やかになる店内。
昼は紅茶の注文が多くなったが、夜になればもう仕事を終えている者たちが客の中心。
みけのエールはそのうまさゆえに、腹にためるためではなく単純に楽しみに飲む者が多く、夜はやはりエールの時間になる。
そんな面々に、まぐろの山かけは良いつまみになるのだろう。
「うまい料理を見つけてくれて、ありがとうな!」
そう言ってエールを掲げて見せるアランに、ちょっとだけうれしくなるコリン。
不運続きの一日だったが、幸運にも好き嫌いの分かれる料理をおいしく食べられた。
そして思い切って食べた一品が、人気になった。
そんな事実が、気持ちを軽くしてくれる。
「店主、お代わりを! 今度はエールと一緒に!」
「はいよ」
思わずお代わりを頼んで老人の方を見ると、満足そうに大きく一度うなずいた。
「よかった……おいしく食べられて本当によかった……!」
それは小さな幸運だが、不運続きだったコリンにとっては一日の最後に待っていた、大きな祝福。
これまでの不幸は全て、この瞬間のためだった。
そう思えたことで、続いた不幸の記憶が浄化されていく。さらに。
「おいしいですよねぇ」
ニコニコしながら、お代わりを持ってやって来たエマ。
「ご飯に乗せても、すっごくおいしいんですよ……!」
まるで機密事項でも話すかのような感じで、そんなことをそっと伝えてきた。
「そうなのか……それなら、また食べに来るよ!」
「はいっ! お待ちしていますっ!」
すっかりご機嫌になったコリンは、二つ目のまぐろの山かけをエールと一緒に楽しんだ。
そして、鼻歌交じりで店を出る。
「おいしかったよ、また来る」
「ありがとうございましたーっ!」
「またどうぞ」
労働者であるコリンは、米という存在を知らない。
よってエマの言う『ご飯に乗せて食べる』というものが、どういう事なのかは全然分からない。
ただ、また『みけ』に来る理由と大きな楽しみができた。
それだけで、来る時はお先真っ暗だったはずの夜道すら明るく見える。
「最高の店を見つけちゃったな」
不運ばかりは続かない。
そんなありきたりで無責任な言葉を、ちょっとだけ信じてみるコリン。
エールが入ったことで、その足取りも踊るように軽快だ。
これなら家に着く頃には、続いた不幸のこともすっかり忘れ、次の来店の楽しみで心がいっぱいになっていることだろう。
ご感想いただきました! ありがとうございます! 返信はご感想欄にてっ!
※エピソードを1つ31話として追加しました!
これによって30話から33話までが、一つの流れになった感じです!
もしお時間があるようでしたら、30話から続けて読んでいただけると、幸いです!
お読みいただきありがとうございました!
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