28.湖
次の日、王子は約束通りヴィオラを森の湖へと連れ出した。
天気がよく穏やかな日差しが差し込む。森のひんやりとした空気が肺に流れ込むと心地がいい。
湖は穏やかな風が流れると波うち、城の庭園では見られない、薄桃色の花弁の花が浮かぶ。
「わぁ! 湖に浮いているのはお花ですよね? とてもきれい……」
「気に入ったか?」
「はい、とても。連れてきてくださってありがとうございます、殿下」
ヴィオラが目を輝かせて、景色を楽しんでいるのをみて、王子は満足げな笑顔になる。
ヴィオラと王子が湖のほとりを並んで歩く。ヴィオラは美しい景色に目を奪われているが、王子の視線はずっとヴィオラに向いていた。こんなにも自分は彼女に心を奪われてしまったのかと、心の中で苦笑する。
湖のほとりに大きな布を敷いて、城の料理人に用意してもらったパンに野菜を挟んだサンドや果物の入ったバスケットを置く。
「ふふ、とても素敵なピクニックです。誘ってくださって本当にありがとうございます」
「そうだろう! いろいろと食事を持ってきたぞ、たくさん食べるといい」
「えと……皆さまは食べられないのですか?」
今回、湖へのお出かけは王子とヴィオラの二人きりというわけにはいかなかった。常にヴィオラの四方をロージーや他の花の使用人たちが辺りを警戒している。
ロージーがヴィオラに優しく微笑む。
「まぁ、なんてお優しいのヴィオラ様、でもお気遣いは不要ですわ。皆、先に食べてきましたから」
「そうですか……?」
ヴィオラは正直困惑していた。
いくらデルフィスに連れ去られかけたといっても、すでにデルフィスは捕まっていて不安がないというのに、ずっと警戒態勢が続いていて、申し訳なく感じる。
そして、二人きりになることがなく、ヴィオラは王子への想いを伝えるタイミングをずっと逃し続けていた。
ヴィオラがサンドをほおばりながら、ちらりと王子を見上げる。
王子はヴィオラをずっと見ているので視線が重なり、ヴィオラはなんだか恥ずかしい気持ちに襲われて、すっと視線をそらした。
(……さすがに、人前じゃあなんだか恥ずかしい……)
ヴィオラがそわそわしているのを王子は見逃しておらず、すぐに「何か気になるのか?」と尋ねてくれるが、ヴィオラは首を横にふった。
(殿下は本当に優しい。わたしのことをよく見てくれるし、デルフィスからも助けてくれて、わたしの傷を見ても嫌なことを言わないでいてくれる。本当にもったいないくらい……)
ヴィオラの頭の中で今まで王子と過ごした日々がぐるぐるとめぐる。
どれもヴィオラにとって楽しく大切な思い出となって、心に積み重なっている。
(そっか、わたしの心の穴は殿下に埋めてもらっていたんだ……)
「あの、殿下……わたし……」
ヴィオラが言葉をつづけようとしたとき、突然晴れていたのに霧が出てきた。
ロージーたちは身構えて、王子も警戒して、困惑するヴィオラを優しく抱き上げた。
「殿下?」
「僕から離れるな、必ず君を守る」
「え? でも、何から……?」
王子の優しい表情は消え、鋭い目つきであたりを警戒する。
霧の奥からぼんやりとした人影が見え、それに気づいたロージーがその人影にとびかかるとあっけなくその人影は地面に押さえつけられた。
そして、拘束された人物は情けなく「うわーん」と泣き始めた。
その声に聞き覚えがあったヴィオラは驚いて、王子の腕の中から滑り落りた。
霧はすぐに晴れて、拘束されている人物が10歳ほどの少年だということがわかった。
「ラック君!? どうしてここに?」
「ぐず、ヴィオラねえちゃん? 本当にヴィオラねえちゃん!?」
ロージーはこの少年がヴィオラの知り合いだとわかると、拘束を解いた。
ラックはヴィオラに向かって駆け、ぎゅっとヴィオラを抱き締めた。
「ラック君、本当にラック君なの? どうやってここに来たの?」
「デルフィスに言われて霧の中を歩いてたら、いつの間にかここに来てて……」
「デルフィスに?」
「それよりもねえちゃん帰ってきてよ! ねえちゃんがいなくなってから大変なんだよ!」
「大変って……どうしたの? とにかく、落ち着いて……」
デルフィスという名前が出た途端、王子やロージーたちがぎくりとしたが、それよりも町で暮らしていたころによく勉強を教えていた少年ラックが何故ここにいるという疑問にヴィオラの注意は向いていた。
王子がヴィオラに近づくと、ラックは巨大な怪物を見て悲鳴を上げ、ヴィオラによりしがみつく。
「こいつは?」
「……あ、町で勉強を教えていたラック君です」
「ぎゃああああ! ねえちゃん! ねえちゃん! 怪物だよ! デルフィスが言ってた、怪物に捕まってるんでしょ? は、走って逃げよう!」
「ラック君落ち着いて、わたしは捕まっていないし、殿下も皆さまもとても優しい人よ。それに、デルフィスに言われたって、どういうこと?」
王子がこれ以上隠し続けることはできないと諦めて、先に真実を伝えることにした。
「……実はあの日、あの男は逃げ出したんだ。ごめん、君に伝えるとまた不安にさせてしまうと思って、言い出せなかった」
「……!! そ、うですか……だから皆さまこれだけ心配されて……お気遣いありがとうございます」
やはりヴィオラはデルフィスが脱走したことを聞くと顔が真っ青になって不安そうになってしまったが、王子が「僕が必ず守る、もう怖い目には合わせないから」と力強くヴィオラの瞳を見て伝えると、ヴィオラは少しだけ顔色が戻ってこくりと頷いた。
ヴィオラと王子のやり取りを見ていたラックが自分の聞いていた話とは違っていたようで、困惑した表情でヴィオラと王子を交互に見つめる。
「ヴィオラねえちゃん、デルフィスが言ってたみたいに本当に酷いことはされていないの?」
「全くよ。むしろ幸せなくらい」
そう、自分はここに来てからずっと幸せを感じている。
そして、それはこの城の使用人たちや王子によってもたらされたもので、感謝の気持ちがヴィオラの心からあふれる。
「ねえちゃんが泣いてないようでよかった。ねえちゃん、あのおばさんやマデルのせいでずっと辛そうだったから」
「……ラック君、もしかして心配でここまで来てくれたの?」
「べっ、別に! ただっ、ヴィオラねえちゃんは泣き虫だし、のほほんとしてるし、お人好しだからっ、オレが助けてやらないとって思っただけ!」
「ふふ、そっか、ラック君は優しいのね」
「頭をなでるな!」
ヴィオラは優しく微笑んでラックの頭をなでるのをラックが子ども扱いするなと文句を言っているが、払いのけようとまではしなかった。
周りにいるロージーや使用人たちは既視感に襲われ、ラックを見た後はじっと王子に視線が集まった。
不思議と使用人たちの視線が自分に集まっていることに気づいた王子が「なっ、なんだその目は!?」と言って狼狽える。
王子は使用人から嫌な視線を送られるし、ラックは先ほどからヴィオラにベタベタしているしで苛立ちはじめ、ラックの首根っこを掴み持ち上げる。
「おい小僧! いつまで彼女にくっついている!?」
「ぎゃあああ!」
「殿下! ラック君が驚いています! もっと優しく!」
ヴィオラに言われてしぶしぶラックを地面に下ろすが、ヴィオラから遠ざけ、ヴィオラの隣を死守した。
その間、ラックは借りてきた猫のように震えて大人しい。
「ラック君、デルフィスに言われてここに来たのよね? おばさまやおじさまが心配されるわ」
「そうだった! ねえちゃん、帰ってきて! ねえちゃんの父ちゃんが……病気で倒れたんだ……起きられなくなって、ねえちゃんを呼んでる……」
「お父さまが!?」
父が病におかされているという話にヴィオラに頭が殴られたような衝撃が走る。
時が止まったように、ヴィオラが硬直して動かなくなってしまった。
王子が動けなくなってしまったヴィオラに代わり、ラックに詰め寄る。
「ラックとか言ったな、それは本当なのか? どうにもあの男が言ったというのなら信用ならない」
「ひっ……ほ、ほんとうだよ。オレ、ヴィオラねえちゃんの家に行って、ねえちゃんの父ちゃんが辛そうに寝てるとこ見たんだ。それに、ねえちゃん家、酷いことになってたよ、ぐちゃぐちゃだったし、いろんなものが差し押さえ?になってて、次は屋敷も売られるって噂だって、母ちゃんも言ってて……」
ヴィオラはやっと時間が動き出した。
ただ、瞳が動揺で揺れていて、身体が震えている。
「ラック君、教えてくれてありがとう……そう……お父さまが……」
ヴィオラの呆然とする姿に王子が傍に寄り添って肩を引き寄せる。
ヴィオラがすがるように王子に抱きついて、顔をうずめるとすすり泣き、しゃくりあげる声がもれる。
「殿下、どうしましょう……お父さまが……お父さまが……」
「大丈夫、僕が傍にいる。一緒に考えよう」
ヴィオラは幼いころに母を病で亡くしている。
今度は父が病に侵されるという事実がどれほど重いことかと王子は想像してしまう。
ただ、ヴィオラが帰りたいといったとき、自分がどうすべきかを考えなければならないとも思った。




