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第217話 500万人の大合唱

 ——照明が、ゆっくりと強くなっていく。


 さっきまで暗がりの中のシルエットだった100人に、光が当たっていく。


 顔が見えた。


 年齢も格好もばらばらだった。普通の人たちだった。制服を着た高校生。スーツの会社員。パーカーにジーンズの大学生。みんな、緊張した顔をしていた。こわばった笑顔。震えている手。隣の人と手を握り合っている人。泣いている人もいた。ステージに立つ前から、もう泣いている。


 モニターのカメラが、一人一人をズームで追い始めた。


 ——母親と並んで立っている小さな女の子。ステージの上でキョロキョロしている。お母さんの手をぎゅっと握りながら、でも満面の笑顔で目はきらきらしていた。——あ。合唱動画の中で、大人の声に混じって聞こえるあの子どもの声。あの子なんだ。


 ——カメラが次の人を映した。男性が二人、並んで立っている。同じくらいの背丈で、同じくらい緊張した顔をしていて、時々お互いの顔を見て頷き合っている。


 スタジアムがざわついた。隣の人が小声で言った。「あの二人、ソラノオトじゃない?」


 ソラノオト。知ってる。光くんに憧れて歌を始めたっていう男の子二人のユニット。男性の歌い手ユニットなんて珍しいからすぐに話題になって、ネットではけっこう有名な二人だ。

 あの合唱動画に彼らが参加してるってわかった時、最初に火がついたんだよね。「ソラノオトが参加してる合唱動画がある」って拡散されて、そこから一気にバズった。——あの二人がいなかったら、あの動画がここまで広まることはなかったかもしれない。


 ——カメラがさらに動いた。一人だけ、明らかにドレスアップされた格好の人が映った。淡いピンクのドレス。髪もきれいにセットされている。何かのパーティーか、結婚式か——とにかくそこから着替える間もなく駆けつけてきたみたいだった。モニターにその姿が大きく映った瞬間、客席からどよめきと笑いが起きた——でもすぐにそれは拍手に変わった。


 ——そして、カメラが一番端を映した。車椅子の女性がいた。


 他の参加者に囲まれて、笑っていた。泣いていた。両方だった。隣に立っている人が、彼女の肩にそっと手を置いていた。



 光くんがトロッコの上からマイクを構えた。


「ステージの人たち、みんなもう気づいてるかもしれないけど——あの合唱動画の人たちです!」


 歓声が弾けた。気づいていた人も、今はっきり確認できた人も、全員が声を上げた。


「なんと、100人全員が駆けつけてくれました!!! みんな拍手!!!」


 5万人の拍手がスタジアムを包んだ。ステージの上の100人が、その歓声と拍手を浴びて——もう何人かは、完全に泣いていた。さっきまでこわばっていた顔が、少しだけほどけた。ピンクのドレスの人が、恥ずかしそうに笑いながら手を振っていた。小さな女の子が、お母さんの手を握ったまま、客席に向かってぶんぶん手を振っていた。


 光くんがそれを見て、ふっと笑った。


「みんなー! 最後はスマホなしだぞーーー!」


 観客が——一斉にポケットに手を入れた。何万人もの手がスマホを手放していく。記録する手段が、なくなった。


 ふと右を見ると、隣の人もスマホをポケットにしまっていた。あたしもバッグに入れた。画面を伏せて、ファスナーを閉めた。


 ——もう、何も残せない。ここから先は、体と心にしか記録できない。


「ここにいる全員で一緒に歌って、心に焼き付けて帰ろう!」


 光くんが客席を見渡した。それから——トロッコの上から、モニターのカメラに向かって手を振った。


「カメラの向こうもね! みんな一緒に歌うよ!」


 配信を見ている人たちに向けて。画面の向こう側にいる、ここにいないけど同じ時間を共有している、全部の人に向けて。



 バンドが——変わった。


 ずっと続いていた「星空」の余韻が、途切れることなく、別のメロディに溶けていった。


 合唱曲「これでいい」のイントロ。


 一度も音が途切れなかった。「星空」から、一本の線で繋がったまま、次の曲が始まった。遥さんのキーボードが最初のコードを押さえた瞬間、空気がふわっと変わった。さっきまでの激しい星空の残像が溶けて、もっと素朴な、もっと温かい色が広がっていく。


 ステージ上の100人が——歌い始めた。


 スタジアムのスピーカーから、100人の声が流れてきた。


 ——鳥肌が立った。


 プロの声じゃない。完璧なピッチじゃない。少し不揃いで、少しぎこちなくて、声が震えている人もいて。でも——温かい。一人一人の声が違う温度を持っていて、それが混ざり合うと、胸の奥をじんわりと押されるような感覚になった。


 動画で聴いた、あの合唱。


 あの時はイヤホンから流れてきた音だった。スマホの小さなスピーカーから聞こえた音だった。それが今、スタジアムのスピーカーから、5万人の頭上に降ってきている。同じ声なのに、体に届く重さが全然違う。空気を震わせて、肌に触れてくる。


 トロッコの上で、光くんが歌い始めた。


 ——そして。


 5万人が、歌い始めた。



 最初は、おずおずとだった。


 自分の声が聞こえるのが恥ずかしくて、小さな声で。口を動かしているのに音になっていないくらいの、ほとんど吐息みたいな声で。隣の人の声を確かめるように。


 でもサビに入った瞬間——堰が切れた。


 5万人の声が、一気に重なった。


 足元から突き上げてくるものがあった。声の振動が、地面から、椅子から、空気から、体のあちこちに伝わってくる。お腹の底が震えている。胸の奥が震えている。それが自分の声なのか隣の人の声なのか、もうわからない。全部が混ざっている。


 上手くない。音程がずれている人がいる。歌詞を間違えている人がいる。声が裏返っている人がいる。


 でも——全部が混ざると、一つの巨大な声になった。


 100人の声の上に、5万人の声が重なっている。もっと不揃いで、もっとぐちゃぐちゃで、もっと——温かい。あったかい。お腹の底から声を出すたびに、体の中の何かがほどけていく。


 スマホはない。ペンライトだけが輝いている。記録していない。この瞬間を切り取る手段を、全員が手放している。


 だから——全部が、今ここにしかない。



 あたしも歌っていた。


 いつの間にか、声が出ていた。恥ずかしくなかった。もうそういう感情は、どこかに行っていた。


 隣の人も歌っていた。名前も知らない。今日初めて隣に座った、見ず知らずの人。その人の声が、あたしの声のすぐ横で鳴っている。低い声。あたしの声より全然低い。でもそれが隣にあると、なぜかあたしの声まで安定する気がした。


 反対側の人も歌っていた。前の席の人も。後ろの人も。


 涙が止まらなかった。歌いながら泣いていた。声がぐちゃぐちゃになっていた。でも止められなかった。止めたくなかった。泣いているのに笑っている。笑っているのに涙が流れる。感情がめちゃくちゃで、でも歌だけはちゃんと口から出ている。


 光くんがトロッコの上から、客席を見渡していた。


 モニターに映る光くんの顔は——笑っていた。泣いていた。両方だった。


 歌いながら。マイクを握ったまま。5万人の声に包まれながら。目が潤んでいるのに、口元がくしゃっと笑っている。


 ——あの顔を見た瞬間、もっと泣いた。



 2番に入った。


 5万人の声が、さらに太くなった。1番で声を出す恥ずかしさを超えた人たちが、もっと大きな声で歌い始めている。さっきまでの遠慮が嘘みたいに、スタジアム全体が鳴っている。


 ステージの上の100人が、客席を見ていた。自分たちの声で作った合唱を、5万人が歌っている。モニターに映る100人の表情は——もう、全員泣いていた。泣きながら歌っていた。口を大きく開けて、涙を拭いもせずに。


 光くんがトロッコの上で歌いながら、すぐそこを通り過ぎていった。手を伸ばした人と、一瞬だけハイタッチをした。そのまま、歌いながら進んでいく。触れた人が、声を上げて泣いていた。



 ——気がつくと、隣の人と肩を組んでいた。


 どうしてそうなったのか、いつからそうなったのかわからない。気づいたら、あたしの右肩に誰かの腕が回っていて、あたしの左腕も誰かの肩に乗っていた。


 名前も知らない。顔もろくに見ていない。今日初めて隣に座っただけの、見ず知らずの人。


 なのに——肩を組んで、左右に揺れながら、大声で歌っていた。


 見渡すと、スタジアム中で同じことが起きていた。あちこちで、見知らぬ人同士が肩を組んでいる。隣の席の人と。前の席の人と。今日初めて会った人と。二人、三人、四人——繋がった塊がどんどん大きくなっている。みんな揺れている。みんな歌っている。みんな泣いている。みんな笑っている。


 あたしなんて一人で来たんだから。隣の人の名前も知らないんだから。


 なのに、一緒に肩を組んで歌って、笑いながら号泣して——なんだこの光景は。


 涙でぐちゃぐちゃの顔で大声で歌って、名前も知らない人と肩を組んで揺れて、それが全然おかしくない。この場所では、それが当たり前みたいに成立している。


 ——なんだこれ。なんなんだこれ。



 ラストサビ。


 5万人の声が——ひとつになった。


 不揃いのまま。ずれたまま。完璧じゃないまま。でも、ひとつだった。


 100人の声と、5万人の声と、バンドの音が、全部混ざって、一つの巨大な音楽になっていた。肩を組んだ体の揺れが、隣から隣へ伝わっていく。波みたいに。呼吸みたいに。


 配信の向こうで、500万人が歌っているかもしれない。家で。部屋で。一人で。誰かと一緒に。画面を見ながら。あたしたちの声は届かないけど、同じ曲を、同じ瞬間に、歌っている。


 最後のフレーズ。


 声が、もう声じゃなかった。叫びだった。祈りだった。5万人全員が最後の一音に全部をぶつけていた。喉が枯れても、声が裏返っても、関係ない。ここにいる全員が、同じところに向かって——


 光くんの声と、100人の声と、5万人の声が、最後の一音に向かって——



 ——消えた。


 音が、全部消えた。


 バンドが止まった。声が止まった。最後の一音の残響だけが、スタジアムの夜空に吸い込まれていった。


 静寂。


 5万人が——誰も動かなかった。


 声も出さない。拍手もしない。ペンライトを振ることすらしない。肩を組んだまま、誰も腕をほどかない。


 まだあの曲の中にいるみたいに。まだ歌っているみたいに。最後の一音が消えたことを認めたくないみたいに。


 隣の人の肩の温度が、まだ腕の下にある。自分の声の残響が、まだ喉の奥に残っている。


 1秒。


 2秒。


 3秒。


 ——ぶわっと。


 歓声と拍手が、一気に押し寄せた。


 5万人分の。


 スタジアム全体が揺れた。足を踏み鳴らす音。叫び声。拍手。泣き声。笑い声。全部が混ざって、一つの巨大な音になった。隣の人と顔を見合わせて、二人とも涙でぐちゃぐちゃの顔で、なぜか笑っていた。名前も知らないのに。


「今日は、これでおしまい。めっちゃ楽しかったよ!!!!」


 光くんがトロッコの上に立ったまま、客席に大きく手を振りながら、スタジアムの右端から消えていった。


 ステージの上の100人が、客席に向かって手を振っていた。泣きながら。笑いながら。さっきまで極度に緊張していた顔が、全部ほどけていた。


 あたしは拍手をしていた。手が痛くなるくらい。涙でぐちゃぐちゃの顔で。手のひらが真っ赤になるまで叩いて、それでも止められなかった。隣の人も同じだった。



 ——このライブは、光くんの曲で始まった。


 でも、最後の曲は、みんなの曲だった。


 光くんが作った曲を、100人が合唱にして、5万人がスタジアムで歌って、500万人が画面の向こうで歌った。


 一人のピアニストの音楽が、500万人の声になった。


 ——ペンライトの白い光が、まだ瞬いていた。地上の星空が、まだそこにあった。


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【作者からのお願い】

星空と同じく、作中歌【これでいい スタジアムライブ合唱ver】を作成、Youtubeに公開いたしました。

作品の物語【第217話 500万人の大合唱】とリンクする歌詞、音楽をぜひお楽しみいただければと思います。

↓↓↓

https://youtu.be/zIxO4bJ-Ju0?si=jDteblqblAVUUB-8

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