第216話 100人に届ける電話
——ライブの3ヶ月前。
マリ姐が最初にかけた電話は、合唱動画の制作者——あの子だった。
合唱曲のセットリスト採用の許諾をもらってから、音源の再構成を光と遥と一緒にスタジオで進めた、あの高校生。掲示板に興奮のままスレを立てた時にちょっと怒って、でも「まぁ光の無茶振りに比べたらね」で許した、あの子。
電話に出たのは一コールだった。
「マリさん! どうしました!」
もう声だけで笑っているのがわかる。この子はいつもこうだ。
「もう一つ、お願いがあるの」
「はい!」
「当日、ステージの上で——100人全員で歌ってもらえないかって考えてるんだけど」
一瞬だけ、電話の向こうが静かになった。
「…………え」
「100人全員に声をかけたいの。参加者の連絡先、もらえる?」
「えっ、あ、はい、はい! リストは送ります! 送りますけど——あの、100人、ステージに立つんですか? 5万人の前に?」
「そうよ」
「…………やばい」
声が震えていた。それから、鼻をすする音が聞こえた。
「——やばいです、それ。やばい。はい。リスト送ります。あの、でも正直に言うと、一部の人は本当にSNSのアカウントしか知らないんです。音声データのやり取りもDMだけで完結してたので」
「構わないわ。繋がらない人がいたら、また相談させて」
「はい! あと、私の方からも参加者のグループチャットに『公式から連絡が行くかもしれない』って入れておきます!」
「助かるわ。ありがとうね」
「こっちこそです! あの——マリさん」
「なに?」
「……最高すぎませんか」
マリ姐は少しだけ笑った。
「まだ何も始まってないでしょ」
⸻
翌日。制作者から送られてきたリストを、詩音が一人一人照合し、連絡可能な状態に整えた。
詩音のデスクの上に、100名分のリストが印刷された紙がある。
名前——本名がわかっている人は半分ほど。残りはハンドルネーム。連絡先もメールアドレスがある人、SNSのDMしか繋がらない人、電話番号がわかっている人、まちまちだった。
「100人、か」
マリ姐はリストを手に取り、上から順に名前を追った。
⸻
最初の電話を、マリ姐はオフィスの会議室でかけた。
リストの一番上。動画内で最初のソロパートを歌っていた女性。グループチャットで制作者からの事前連絡を見ていたらしい。
呼び出し音が二回で繋がった。
「もしもし——あの、もしかしてチーム光さんですか!?」
「はい。光のマネージャーをしております、マリと申します。合唱動画に参加されていた方にお電話しています」
「やっぱり! グルチャで見ました! あの、何でしょうか」
「スタジアムライブの件で、ご相談がありまして。当日、ステージの上で、合唱動画の100人全員で一緒に歌っていただけないかと考えています」
沈黙。
5秒。10秒。
「……え? 私が? あの、スタジアムの、ステージに?」
「はい」
「5万人の前で?」
「はい」
電話の向こうから、小さな音が聞こえた。鼻をすする音だった。
「……行きます。行きます行きます行きます。絶対行きます」
マリ姐は、リストの最初の名前の横に、小さく✓を入れた。
⸻
一人目は、即答だった。
二人目も、三人目も。
四人目の大学生は、電話に出た瞬間「え、マジで? マジで? マジで?」を7回繰り返してから「行きます」と言った。
五人目の会社員は、「有休取ります。上司になんて言おうかな……いや、正直に言います。光くんのライブに出るんですって」と笑った。
七人目の高校生は、保護者の許可が必要だった。マリ姐が「親御さんに代わっていただけますか」と言うと、電話の向こうで「お母さん! お母さん来て! 光くんの人から電話!」という叫び声と、バタバタと走る足音が聞こえた。母親に事情を説明すると、「娘がお世話になっております。あの動画の時も毎日練習してて……もちろん、喜んで送り出します」と言ってくれた。電話を返された高校生は、すでに泣いていた。
十二人目は、日程を聞いた瞬間に「あっ……その日、姉の結婚式なんです」と言った。
マリ姐の手が止まった。
「……そうですか。それは——」
「いや、ちょっと待ってください。ちょっとだけ待ってください」
電話の向こうで、何かをぶつぶつ呟く声が聞こえた。
「……結婚式、午前中なんです。スタジアムライブは夕方からですよね?合唱はいつ頃?最後なんですか? 行けます。絶対行けます。式が終わったら新幹線乗ります」
「無理はしないでくださいね」
「無理じゃないです。姉もきっとわかってくれます。……っていうか姉も光くんのファンなので、むしろ背中押されると思います」
十五人目と十六人目は、親子だった。合唱動画に母親と小学校低学年の娘が一緒に参加していた二人。リストでは別々の番号が振られている。
電話に出たのは母親だった。事情を説明すると、少し黙ってから言った。
「私は行きたいです。でも、娘の方は——本人に聞いてみないと」
「もちろんです。お嬢さんにも直接お伝えしたいので、代わっていただけますか」
電話口が変わった。少し緊張した、小さな声。
「……もしもし」
「こんにちは。光くんのお仕事をしているマリです。あのね、合唱の時に一緒に歌ってくれたでしょう? 今度、もっと大きな場所で、また歌ってほしいなと思って」
「……大きな場所?」
「うん。すっごく大きいところ。お母さんと一緒に来てくれる?」
間があった。それから、受話器の向こうで母親に何か聞いている声がして——
「行く」
短く、でもはっきりと。
母親が電話を代わった。笑っていた。「即答でした。……私より決断が早い」
そして——即答しなかった人も、いた。
「光さんの曲がきっかけで、友達と二人でユニットを始めたんです。ネットに歌を上げるようになって。合唱動画に誘われた時は、二人とも飛び上がりました」と話してくれた人がいた。声は穏やかで、丁寧な口調だった。
だが、ステージの話になると、少しだけ声のトーンが変わった。
「あの——自分たちが行ってもいいんでしょうか……? あとこの話は、相方にしても?」
「もちろんです。難しいこともあると思うので、相談して決めてください」
マリ姐は少し間を置いてから続けた。
「ただ、少しずるい言い方かもしれませんが——光は『100人全員集まったら嬉しいな』と言ってました」
「……光さんが、そんなことを」
声が、わずかに詰まっていた。
「……そこも含めて、話してみます」
「はい。お待ちしています」
——翌日、メールが来た。短い文面だった。
『二人で行かせていただきます、色々とご迷惑をおかけするかもしれませんがよろしくお願いいたします。』
⸻
電話は、一日に10件が限度だった。
事務的な連絡なら、もっと回せる。でもこれは事務連絡じゃなかった。
一人一人が泣いた。一人一人が震えた。一人一人に、あの合唱動画にまつわる物語があった。
マリ姐は全員の話を聞いた。
「あの動画に参加したことが、人生で一番勇気を出した瞬間でした」と言った人がいた。
「引きこもってた時期に、この企画に誘ってもらって、初めて誰かと一緒に何かを作った」と言った人がいた。
「歌なんて下手だから最初は断ろうとした。でも動画の主催者に『下手でもいいから、あなたの声が欲しい』って言われて」と言った人がいた。
聞くたびに、電話の時間が伸びた。
詩音が淹れてくれたコーヒーが、毎日冷めた。
⸻
三日目。
38人目の電話を終えたとき、詩音がデスクの向こうから声をかけた。
「マリさん。契約書のひな形、できました」
「早いわね」
「100人分、個別に作る必要があります。肖像権の使用許諾、映像配信への出演同意、交通費と宿泊の精算方法——未成年が7名いるので、そちらは保護者署名も必要です」
詩音はファイルを開いた。几帳面な文字で注釈が書き込まれている。
「それと、当日の動線。100人がステージに上がるまでの導線確保、リハーサルの時間枠、控室の手配。会場のキャパからすると、専用の控室を一部屋確保する必要があります」
「全部まとめてくれてるの?」
「マリさんが電話してる間に、並行で進めてます」
マリ姐は少しだけ笑った。
「……助かるわ」
詩音は頷いて、すでに次の画面を開いていた。
⸻
マリ姐が一人一人と向き合う中、詩音は契約書の山と格闘していた。
100人分の個別契約書。一枚ずつ、名前と住所と条件が違う。一件一件、丁寧に条件を説明し、質問に答え、修正し、確認し、署名をもらう。
「詩音さん、今何件?」
「署名済みが67件。返送待ちが18件。確認中が12件。保留中が1件。未連絡が2件」
「未連絡の2件は?」
「1件は海外在住で時差の関係で調整中。もう1件は就職活動中で電話に出られないことが多い方。どちらも参加の意思は確認済みなので、署名のタイミングだけの問題です」
「保留中の1件は?」
詩音が少し間を置いた。
「まだご本人から連絡がない状態です」
⸻
——ある夜。
合唱動画の参加者たちのグループチャットに、一通の長いメッセージが投稿された。
『みんなに相談させてください。マリさんから連絡をもらって、本当に嬉しかったです。でも正直に言うと、私は車椅子で、普段あまり外に出られません。歌い手を始めたのも、家の中でできることだったからです。ステージに立つとなると、きっとみんなに迷惑をかけてしまう。100人揃わないのは申し訳ないけど、辞退しようと思っています。ごめんなさい』
数分間、誰も返信しなかった。
最初に動いたのは、動画の制作者だった。
『絶対出なよ!』
それから、堰を切ったようにメッセージが流れ始めた。
『迷惑とか関係ないから! 100人で歌うんだよ!? 99人じゃ意味ないんだよ!!』
『配信とか、後になってその場で歌ってる仲間を見て、なんで自分はいないんだろうって絶対後悔するよ!!』
『ステージのことはプロの人たちがなんとかしてくれるって! 私たちは歌うだけでいいんだよ!』
『マリさんに相談しよ!! あの人、絶対なんとかしてくれるって!!!』
『マジでなんでもなんとかしてくれるよ!きっと!!!』
メッセージは夜中の2時を過ぎても途切れなかった。
⸻
翌朝。マリ姐の電話が鳴った。
「あの……すみません、ずっとお返事できなくて」
「いいです、急に5万人の前で歌えって言われて戸惑う気持ちの方がむしろわかります」
「……私、車椅子なんです。ステージの上で色々とご迷惑をおかけしてしまうかもしれなくて。でも——出たいと思っています」
マリ姐は一拍も置かなかった。
「絶対に私がなんとかします。歌うことだけ考えていればいい状態に、こちらで全て整えます」
電話の向こうで、長い沈黙があった。それから——
「……ありがとう、ございます。出ます」
⸻
マリ姐はリストを広げた。100の名前。100の✓。
全員、揃った。
⸻
その夜。
オフィスに残っていたのは、マリ姐と詩音だけだった。
詩音は最後の契約書を整理している。マリ姐は手帳を閉じて、天井を見上げた。
「……100人全員、揃っちゃったわね」
「まさか全員揃うとは思いませんでした」
「どうして光の周りって、こう、奇跡みたいなことがぽんぽん起こるのかしら」
「ほんとですよね」
詩音が小さく笑った。マリ姐も少しだけ笑った。
「——でも」
マリ姐の声が、少しだけ真剣になった。
「この人たち、全員ただのファンなのよね」
詩音の手が止まった。
「プロの歌手じゃない。ほとんどは音楽の仕事をしているわけでもない。普通の学生や会社員や主婦が、光の曲が好きで、自分の声を録って送って、それが一つの動画になった」
「はい」
「その100人を、5万人の前のステージに立たせようとしている」
マリ姐は天井から目を戻した。
「——怖いだろうね、きっと」
詩音は少しだけ頷いた。
「だから、当日は全力で守るわよ。動線も、控室も、リハーサルも。100人が安心してステージに立てるように。ここから最後まで走り抜けるわよ」
「はい!」
「光にも、きちんとフォローを入れるように言っておかないと」
「ステージで緊張する気持ちとか、わからなそうですもんね」
「それは間違いないわね……」
苦笑しながらマリ姐は立ち上がって、コートに手を伸ばした。
「さ、帰りましょうか」
オフィスの電気を消す。
デスクの上には、100名分の✓がついたリストと、100通分の契約書のファイルが並んでいた。
⸻
—— 約一ヶ月半。
動画作者との契約、合唱参加者100人全員への相談と確認。
"マリ姐が電話とメールを死ぬほど捌き、詩音が契約書を死ぬほどチェックした"、その全容が——これだった。
明日以降、17:10に毎日1話投稿していきます〜〜〜
すでに完結まで執筆済みなので、エタらないです!!!
しばらく止めてすみませんでした〜〜〜!




