第213話 ガチファンとガチ職人
ライブ本番の4ヶ月前。
都内のアトリエ。光、真白、詩音の三人と——衣装チームが顔を揃えていた。
チーフデザイナーの三條さん。舞台衣装を二十年やっているベテランで、目の下にクマがあるのに目だけがギラギラ光っている、趣味がそのまま仕事になったようなタイプの人だ。アシスタントが二人、三條さんの後ろに控えている。
テーブルの上に、布のサンプルが広げられている。
議題は、ライブ本編クライマックス——「星空」用の衣装。
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「色は紺です」
真白が言い切った。
目が据わっている。いつもの穏やかな真白ではなかった。衣装の話になると、この人はこうなる。
「星空の"白"は使いません。夜空の"紺"をベースにします。白は——客席のペンライトがやりますから」
詩音が頷いた。
「光さん本人が星になるんじゃなくて、5万人の光の中に立つ構図ですね」
「そうです。光様は夜空の中心。お客さんが星。だから衣装は夜空の色で、スパンコールは"星が映り込んでいる"イメージです」
三條さんが腕を組んで、真白の話を聞いていた。プロの顔。クライアントの要望を咀嚼する、あの静かな集中力。
光が感心したように頷いている。
「へぇ……紺かぁ。そっちの方が映えるのかな」
「映えます。確実に」
ここまでは普通だった。
ここまでは、まだ普通だった。
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「で、肩を出します」
「肩?」
光が首を傾げた。
「これが一番大事です」
真白のスイッチが入った。声のトーンが数段上がった。
「下から見上げる5万人の目に何が映るか——衣装じゃなくて、光様"自身"が見えなきゃいけないんです。肩のラインって、人間の体の中で一番"生きてる"を感じる場所なの。呼吸で上下するし、力を入れると筋が動くし、汗で光るし——」
「待って待って待って」
「——照明が当たった時の鎖骨の影の落ち方も計算してあります。スポットライトが上から来ると、ちょうど肩の丸みに沿って影が——」
「待って真白さん」
「何でしょうか?」
光が、じっと真白を見た。
「……それ、肩出しが見たいだけじゃない?」
沈黙。
アトリエの空気が、ぴたりと止まった。
「…………違いますけど」
「目、泳いでるよ」
「デザイン的な観点から——」
「俺の肩の影の落ち方を計算してる時点でもうデザインの範疇超えてると思う」
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と、その時——真白が不意にバッグに手を伸ばした。
「……見てもらった方が早いかもしれません」
クリアファイルが取り出された。分厚い。中には——大量のイラストが入っていた。
テーブルの上に、一枚、また一枚と並べられていく。
全員同じことを思った——何枚あるんだ、これ。
手描きの完成イメージイラスト。全部、光が描かれている。
最初の一枚。正面から。紺の和装に身を包んだ光が、まっすぐ前を見て立っている。片方の肩がはだけて、鎖骨から腕のラインが露わになっている。帯は腰で緩く巻かれ、裾は短め。素足に草履。布地の上に、星のようなスパンコールが散りばめられている。
次の一枚。横からのアングル。袖の流れ方、帯の位置、肩の開き具合——身体のラインに沿って布がどう落ちるかが、丁寧に描き込まれている。
後ろからのアングル。背中の布の落ち方、うなじから肩にかけてのラインが露わになっている構図。着崩しているのに、背中のシルエットには品がある。
マイクを握っている一枚。歌い上げている横顔、肩の筋が動いている。腕を振り上げた一枚。袖が腕の動きで跳ね上がる瞬間が、鮮やかに描き込まれている。
走っている。ステージを駆け抜けている光。裾が翻り、草履が地面を蹴っている。歩いている。ゆっくりと花道を進む光。袖が揺れている。ジャンプしている。空中で和装の裾が広がっている瞬間を、下から見上げるアングルで。
他にも——袖の着崩し方を変えたバージョン、目を閉じて歌い込んでいる横顔のアップ、腕を振り上げた瞬間、客席に向かって手を伸ばしているポーズ——
「……何枚あるのこれ」
光が呆然として聞いた。
「え、わからないです。とりあえず出来がいいものを持ってきました」
真白は、きょとんとして言った。
——趣味で描いたと。無数に。何枚も何枚も。止まらなくなるまで。
「え、じゃあもっとあるのか…」
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「……ちょっと待って」
三條さんが、手を伸ばした。
テーブルの上に広がったイラストの一枚を取り上げる。腕を振り上げている横からのアングル。目が変わった。さっきまでのプロの冷静さが、一瞬で消えた。
「着崩しなのに、シルエットが崩れない——肩の開き具合と帯の位置のバランス、動きの中での布の挙動まで全部計算が通ってる。和装で肩を出すと普通は"だらしなく"なるんですよ。でもこのイラスト、着崩しと色気の境界を完璧に捉えてる」
三條さんが真白を見た。目がギラギラしていた。
「なんでこれがわかるんですか? 衣装の仕事をされてたことが?」
「いえ、ないです。ただ、頭の中で光様に妄想で色々な衣装を着せて動かすことが趣味でして」
沈黙。
三條さんが、もう一度イラストに目を落とした。それから——笑った。嬉しそうに。興奮を隠しきれないように。
「面白い。面白いなぁ——」
テーブルの上に広がったイラストを端から端まで見渡して、三條さんが深く息を吸った。
「ねぇ、これ——作りたい」
真白の目が、きらっと光った。
「作れますか?」
「イメージはこの絵で完璧にわかる。色も、シルエットも、肩の出し方のラインも、全部見えた。あとは——これをどう"服"にするかでしょう。イラストでは表現しきれない部分を、実物で超える。そこが私たちの仕事ですから」
——そこから、止まらなくなった。
真白が「ここの色はこういうイメージで」と言えば、三條さんが「じゃあこの素材で、この織り方で、染めはこうして」と即座に返す。真白が「動いた時に角度で色が変わるスパンコールを——」と言えば、三條さんが「オーロラフィルムのやつね、ただし肩の部分には入れない。肌が見える場所に光物を置くと肌の質感が死ぬから——」「そうなんです! 照明で汗が光るから、それが一番きれいだから!」
イメージだけを投げる真白と、それを"どう実物にするか"を即座に組み立てる三條さん。二人の専門領域が全く違うのに、完璧に噛み合っている。
光が詩音の横に来て、小声で言った。
「……二人、すごく盛り上がってるね」
「ですね……」
「あれ、もう止まらないよね」
「止まらないと思います」
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——と、詩音はその光景を見ながら、静かに考えていた。
真白さんの意見は、毎回こうだ。ガチファンの欲望を理論武装で包んで出してくる。でも不思議なことに——それを採用すると、毎回、光さんが本当に輝く。
そして、あのイラストを見た三條さんの目は本物だった。真白さんのイメージが職人の技術を着火させて、そこから先は職人の領域になる。
詩音は小さく息をついて——判断を下した。
「……やりましょう。肩出しで」
盛り上がっていた二人の会話が、一瞬止まった。
「え……」
光が驚いた顔をした。
「詩音さん!!」
真白の目がきらきら光った。まるで推しのライブの当選通知を見た時のような——いや、たぶんそれと同質の喜びだった。
「ただし」
詩音の声が、一段低くなった。
「演出意図として"演奏者の身体性を見せる"という方向で資料をまとめてください。"肩が見たいので"とは言えませんから」
それから、詩音は三條さんに向き直った。
「それと、三條さん。予算の上限はありません。素材も、工程も、好きにやってください。最高のものを作ってください」
三條さんが、一瞬固まった。
「……は?」
「文字通りの意味です。予算の心配は不要です」
三條さんの目が、さっきの比じゃないくらい光った。クマだらけの顔が、少女のように輝いている。
「——待って待って待って。最高の題材に、最高のイメージがあって、予算が無限?」
三條さんが両手をテーブルについた。
「こんな仕事、人生で何回あると思う? さいっっこうじゃないか……!!」
アシスタント二人が、もう完全に目を輝かせていた。
そこに真白がおずおずと言う。
「あ、プレゼン資料は一応作ってあるんですけど——三條さんがもうあの感じなので、別にいらないですかね?」
「……すでに作ってあるんですね」
詩音が遠い目をした。
「肩出しを反対された時用に作ってました。12ページあります」
「肩出しのプレゼン資料が12ページ……。いや、出してください。念のため」
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——と、話がまとまった後しばらく。
詩音がふと横を見ると、真白が小さくガッツポーズをしながら小躍りしていた。肩出し和装が通った喜びを、隠しきれていない。
「……喜びが隠しきれてないよ、真白さん」
光が苦笑しながら言った。
真白がスンッと真顔に戻った。
「いえ、そんなことはないです」
「見てればわかるよ」
「……そんなことはないです」
「まぁ、いいか。楽しそうではあるし」
詩音が小さく笑った。
——まぁ、いいか。
結果が正しいなら、動機なんて何でもいい。
この人たちと一緒に作るライブは、きっとすごいものになる。動機がファン心理だろうが、無数のイラストだろうが——光さんが輝くなら、それでいい。
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——後日談。
特注衣装の制作は、通常なら3ヶ月かかる。
仮縫い、フィッティング、素材の調達、スパンコールの手縫い、照明テスト。工程は山のようにある。4ヶ月前に会議を始めたのは、余裕を持ったスケジュールのはずだった。
1ヶ月半で完成した。
通常の倍の速度だった。
真白のイラストに火がついた三條さんが、アシスタントを巻き込んで、連日アトリエにこもっていた。スパンコールの一粒一粒を角度と位置を変えながら手縫いし、夜中の3時に「袖の落ち方が0.5センチ違う」とメッセージが来た。
光が呆れたように言った。
「なんか……衣装の人も真白さんと同じタイプだね」
詩音は否定できなかった。
——ガチの職人と、ガチのファンが出会うと、こうなるのか。
完成した衣装は、真白のイラストを完璧に再現していた。いや、超えていた。紙の上では表現できなかった布の重み、スパンコールの実際の瞬き、肩から腕にかけてのラインの流れ——全部が、イラストの「その先」にあった。
真白が完成品を見た瞬間、声を失っていた。三十秒くらい、何も言えずに、ただ衣装を見つめていた。
それから——泣いた。
「……三條さん、ありがとうございます」
三條さんがクマだらけの顔で笑った。
「こちらこそ。最高に楽しい仕事でした」




