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第212話 違う武器

 拍手が、ゆっくりと収まっていった。


 「見上げれば」の余韻が、夜の空気の中にまだ震えている。あたしの目尻はまだ湿っていた。周りにも、目元をぬぐっている人がたくさんいた。


 光くんがピアノから手を離した。


 ゆっくりと、椅子から立ち上がる。客席を見渡した。5万人のペンライトの光を、しばらく黙って見つめていた。


「……ここまで、ピアノで歌ってきたけど」


 少し間。


「次は——ちょっと違う武器で来るよ」


 ざわっ、と空気が動いた。


「武器?」「何?」「え、まだあるの?」


 光くんが、いたずらっぽく笑った。さっきまで泣いてた顔の残り香が一瞬で消えて、あのいつもの——何かを企んでいる時の目になっている。


「着替えてくるから、待ってて」


 手を振って、メインステージの袖へ歩いていく。黒シャツの背中が、ステージの暗がりに吸い込まれていった。



 光くんが消えた。


 でも——音は消えなかった。


 ドラムが、すぐにリズムを刻み始めた。軽くて、跳ねるようなグルーヴ。さっきまでの静寂を壊すんじゃなくて、静寂の上に新しい色を塗り始めるような入り方だった。


 ベースが応じた。ドラムのリズムに寄り添うように、太い音がうねる。


 遥さんのキーボードが、二人の間にするっと入ってきた。コードを弾くんじゃなくて、即興のフレーズを投げている。短い音の断片を、ベースに向かって——いや、ギターに向かって。


 ギターが受け取った。遥さんのフレーズを拾って、ちょっとだけ形を変えて返す。遥さんが笑って、また違うフレーズを投げる。


 ——ジャムだ。


 前回の衣装チェンジの時みたいなメドレーじゃない。もっと自由で、もっと短い。バンドメンバーが音で会話している。決まったことを演奏するんじゃなくて、今この瞬間に生まれる音を交わし合っている。


 観客がそれに乗り始めた。手拍子をする人。体を揺らす人。バンドの掛け合いを見守りながら笑っている人。


 でも、みんな——待っている。


 「武器」が何なのか。



 バンドジャムが、徐々にボリュームを落としていった。


 音が薄くなっていく。ドラムがブラシに変わった。ベースが一音だけ残して引いた。ギターが消えた。遥さんのキーボードが、最後の一音を長く伸ばして——消えた。


 照明が、絞られていく。


 暗い。暗い。さっきまでのジャムの温かさが引いていって、代わりに張り詰めた空気が這い上がってきた。


 メインステージ中央に——スポットライトが一本、落ちた。


 白い光の円。その中に、人影が立っていた。



 ——息が、止まった。


 あたしだけじゃない。周りの人たちが一斉に息を呑む音が聞こえた。5万人分の、小さな吸気音が、一つの大きな沈黙になった。


 全く別の人がそこにいた。


 和装だった。


 着崩した和服。片方の肩がはだけて、鎖骨から肩のラインが露わになっている。帯は腰で緩く巻かれて、裾は短めに仕立てられている。素足に草履。


 布地の色は深い紺——夜空の色だった。


 そこに、小さなスパンコールが散りばめられていた。照明が当たるたび、光くんが動くたびに、体の表面がきらきらと瞬いている。和服の上に、星が降り注いでいるみたいだった。


「和装!?」「着物!?浴衣!?」「何あの衣装!?」「かっこいいいいい!!」「色気やばぁ………」「綺麗すぎる……!」「やばい……やばい……」


 首から——何かを提げている。

 衣装と同じ紺色、細長いもの。ギターのような形をしているが、鍵盤が並んでいる。


「ショルキーだ!!!」


 あたしの近くで、誰かが叫んだ。


 ショルダーキーボード。首からエレキギターのように提げて弾くキーボード。ギタリストみたいに体を動かしながら弾ける楽器。

 ボディは紺。鍵盤の端に、星のモチーフが入っている。和装と同じ夜空のイメージ。この次の曲のために——この瞬間のために作られたものだとわかった。


 ピアノの前に座る光くん、グランドピアノの蓋にもたれかかるジャズシンガーの光くん。


 そして今、ステージの上に立っているのは ———— ステージの上をどこまでも、"演奏しながら走って行ける" 新しい光くんだった。


 歓声が波のように広がっていく。悲鳴と絶叫と感嘆が全部混ざって、スタジアムを揺らしている。



 (……反則だ)


 女神ドレスの「光ちゃん」とも違う。ネイビーセットアップの「光くん」とも違う。三つ目の姿。このライブの中で、三回変わった。三回目が——一番、息が詰まる。


 美しいとも、かっこいいとも、セクシーとも、どの言葉でも足りない。全部合わせても足りない。和服と鍵盤楽器という組み合わせが、ありえないのに、完璧に成立している。



 ——ふと、あたしは思った。


 この衣装、誰がデザインしたんだろう。


 紺の色。スパンコールの配置。肩を出す着崩し方。ショルキーとの色の合わせ方。全部が計算されている。たぶん、いや間違いない。ゼロから作られたものだ。


 光くんの周りには、こういうことを一緒に考える人たちがいるんだろう。衣装のこと、演出のこと、音のこと。あの女神ドレスも、さっきのセットアップも、全部——光くんと誰かが、一緒に作ったものなんだ。


 ステージの上に立っているのは光くん一人だけど、その衣装や演出の中に、何人もの人の仕事が詰まっている。


 ——たぶん、その人たちは今頃、ステージ袖で見ているんだろうな。自分たちが作ったものを着た光くんが、5万人の前に立っている瞬間を。



 光くんが、ショルキーの鍵盤に指を置いた。


 まだ弾いていない。ただ、指を置いただけ。


 でもその姿勢だけで——スタジアムの空気が、一段、引き締まった。


 ピアノの前に座っている時とは、体の使い方が全然違う。立っている。両足で立って、ショルキーを構えている。重心が低い。肩の筋肉がわずかに緊張しているのが、はだけた肩から見える。


 ——演奏者の体だ、と思った。


 歌う人の体じゃなくて。座る人の体じゃなくて。これから全身で音楽を叩きつけようとしている人の体。


 光くんが、少し笑った。


「……ここまでついて来てくれてありがとう。あと少しだけ、付き合って」



 "あと少し"



 その言葉に、スタジアムが静まった。終わりが近いことを——みんなが、悟った。


 光くんがショルキーの鍵盤に指を落とした。


 ——あのイントロが、鳴り始めた。


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