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第211話 見上げれば

 リビングのような空気が、まだスタジアムに残っていた。


 光くんがメインステージのピアノの前に座ったまま、客席を見渡している。さっきのゆるさの余韻が、5万人の間にふわふわと漂っている。


 少し間があった。


 光くんが何か言おうとして、一度口を閉じた。言葉を探しているみたいだった。さっきまでの軽口とも、ジャズの色気とも違う——なにか大事なことを言おうとしている顔。


「……ここまで来れたのってさ、本当に、みんなのおかげなんだよね」


 静かな声だった。


「俺、曲作ったり歌ったりはできるけど、他のことはなんもできないんだよ」


 マイクを通しているのに、囁くみたいに聞こえた。5万人のスタジアムの中で、一人一人の耳元に届くような声。


「服、これかっこいいよね。ペンライトの演出、すごいよね。スタジアムでっっかいでしょ。どうやったらこんなの借りられるんだろね?」


 客席が静まった。さっきまでの笑いの温度が、すっと引いていく。代わりに、別の温度が滲み出してきた。


「周りを整えてくれる人たちがいる。何より、ついてきて支えてくれたここにいるみんなみたいな人が沢山いる。そのおかげで、こんな凄い場所で凄いことができてるんだよ」


 周りを見渡しながら光くんが言う。


「だからさ、最初の頃に作った曲、歌っていい?」


 ——イントロが聴こえて、スタジアムにざわめきが走った。


 あたしの前の席の人が、隣の人の腕を掴んだ。さっきまでリラックスして座っていた体が、一瞬で強張っている。


「見上げれば……?」

「え、嘘……」

「あの曲やるの……?」


 初期の頃から光くんを追いかけてきた人たちの声が、震えていた。


 あたしは知っている。配信で聴いたことがある。非公式アカウントの人——光くんの配信をずっとまとめてくれていた、名前も顔も知らない誰かに向けて作った曲。


 あの動画のコメント欄に並んでいた無数の「ありがとう」を、覚えている。



 バンドが、音を止めた。


 完全に。


 ドラムが、ベースが、遥さんのキーボードが止まった。ギターも、二胡も、ヴァイオリンも、みんな止まった。


 全員が、楽器から手を離した。


 照明が絞られていく。赤も青も金も消えて、スタジアムが暗くなっていく。最後に残ったのは——光くんを照らす、一本のスポットライトだけだった。


 さっきの『River of Moon』でも同じことをやった。でも、今回は違った。あの時はジャズの延長にあった演出だ。今は——バンドが自分たちの意思で引いている。「ここは光くんの場所だ」と言うように。


 メインステージの暗がりの中で、バンドのメンバーが静かに座っているのが、かすかに見えた。



 光くんが、鍵盤に指を置いた。


 ぽろん。


 ——シンプルな和音だった。


 飾りがない。技巧もない。さっきまでのジャズの洒落たコード進行と違って、ピアノを習い始めたばかりの人でも弾けそうな、素朴なコード。


 でも——その素朴さが、刺さった。


 あたしの前の席の人が、もう泣いていた。最初の和音だけで。曲が始まる前から。


 光くんが歌い始めた。



「今までありがとう、あなたが守ってくれていたおかげで——」


 声が、裸だった。


 エフェクトも、リバーブも、何もかかっていないみたいに聞こえた。マイクとピアノだけ。それ以外の音が、世界から消えていた。


 シンプルな歌詞だった。難しい言葉は一つもない。比喩も、技巧も、ほとんどない。ただ「ありがとう」と「見ています」が、メロディに乗っているだけ。


「やっと空へ羽ばたけそうです——」


 あの配信で聴いた曲と、同じだった。同じコード。同じメロディ。同じ歌い方。何一つ変えていない。


 でも——聴こえ方が、全然違った。


 あの時は、画面の向こう側の小さな部屋で、一人のピアニストが一人の誰かに向けて歌っていた。たった一人の「非公式アカウントさん」に。


 今は、5万人の前で歌っている。


 同じ曲なのに。同じ言葉なのに。「あなたが守ってくれていたおかげで」の「あなた」が、一人から5万人に広がっている——いや、違う。5万人に広がっているんじゃない。


 5万人の中にいる、一人一人に向かっている。



「離れたと思っていても——」


 光くんの声が、少しだけ揺れた。


 感情で揺れたんじゃない。抑えているのに漏れた、みたいな揺れ方。目の奥が光っている気がした。モニターに映る表情は穏やかなのに、声の芯のところに、何かが詰まっている。


「見上げれば、どこまでも飛んだ私が見えるはず——」


 ペンライトが揺れていた。


 5万本。ゆっくり、ゆっくり。示し合わせたわけじゃないのに、みんな同じくらいのテンポで、左右にやわらかく揺れている。色はばらばらだった。オレンジ。白。水色。ピンク。それぞれが好きな色で、静かに光を灯している。


「私も、あなたを見ています——」


 最後のフレーズが、スタジアムの夜空に溶けていった。


 細い一本の糸みたいな音が、夜の空に昇っていく。どこまでも、どこまでも。見上げれば見えるはずの、あの高さまで。


 ——消えた。



 静寂。


 5万人が、息を止めていた。


 1秒。2秒。3秒。


 誰かがすすり上げる音が聞こえた。一つ。二つ。あちこちから。それが静寂を壊すんじゃなくて、静寂の一部になっていた。泣いている音が、夜の空気に溶けている。


 あたしの前の席の人は、両手で顔を覆っていた。肩が震えている。声を殺して泣いている。


 ——あたしも、泣いていた。


 いつからかわからない。気づいたら、頬が濡れていた。



 光くんが、ピアノの前で顔を上げた。


 客席を見渡した。5万人のペンライトの光を、ゆっくりと見渡した。


 そこで遥さんの顔がモニターに映って——泣いていた。


 目元を指先で押さえて、小さく頷いていた。キーボードに手を戻す前に、一瞬だけ天井を見上げた。涙を引っ込めようとするみたいに。



 ライブビューイングの会場にいる人たちも、今この瞬間、同じ曲を聴いている。


 あたしは知っている。全国の映画館で、このライブが中継されていることを。大きなスクリーンの前で、ここにいない人たちが、同じ空気を共有しようとしている。


 配信を見ている人たちも、画面の向こう側で聴いている。


 あたしは知っている。この瞬間、世界中のどこかで、スマホやパソコンの画面越しに、同じ音を聴いている人がいることを。あの日の非公式アカの人と同じように、画面の向こう側から光くんを見つめている人たちが。



 光くんが目を開けた。客席を——5万人を——見た。


 でもあたしには、光くんがもっと遠くを見ている気がした。この壁の向こう。この空の向こう。画面の向こう側にいる、全部の人を。


 その時、光くんがからかうような声で言う。


「あ、遥さん。泣いてるじゃん」


「光くんもだよ」


「えー、そんなこと、、なくもないか」


 目を擦る2人のやりとりに、少しの笑いと——大きな拍手が起きた。


 拍手が重なって、やわらかい波になった。歓声じゃない。叫びじゃない。拍手と、涙と、小さな笑い声が混ざった、あたたかい音。


 光くんがピアノの前に座ったまま、客席を見ていた。


 小さく、「ありがとう」と口が動いた。


 マイクは通していなかった。でもモニターに映っていた。5万人がその口の動きを確かにみていた。



 —— この曲を贈られたあの人は、絶対にどこかで「見上げれば」を聴いているんだろう。


 でも、もうこの曲は、光くんを支えてきた全部の人のものなのかもしれない。


 非公式アカウントの人も、あたしの前の席で泣いている人も、ライブビューイングで見ている人も、配信の画面越しに聴いている人も。名前も顔も知らない、数え切れない「あなた」の全員に向かって、光くんは歌った。


 見上げれば、見えるはず。


 私も、あなたを見ています。


今日の投稿はここまで、

また明日5話一気に投稿します〜〜!

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