第210話 起きたらすでに昼だった日に弾いてみた曲
歓声が収まるまで、しばらくかかった。
お天気メドレーの余韻が、夜の空気の中にまだ漂っている。5万人分の体温と興奮が、屋根のないスタジアムの上空にゆらゆらと立ち昇っている気がした。
光くんがステージの縁から立ち上がって、ゆっくりとメインステージに戻っていく。黒シャツの袖をまくったまま、少しだけ汗ばんだ額を手の甲で拭って——ピアノの椅子に座った。
いつの間にか用意されていたメインステージのステージピアノだ。
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光くんが客席を見渡した。
「そろそろ疲れたー? みんな大丈夫?」
声のトーンが、さっきまでと全然違った。ジャズシンガーの色気も、シンフォニックメタルの圧もない。リビングで家族に話しかけるみたいな、素の声。
「大丈夫ーー!」「興奮しすぎて疲れたーー!」「叫んだーーー!!!」
声が混ざった。正直な声と、まだ興奮が抜けていない声と、笑いながら答える声と。5万人分の返事が、ぐちゃぐちゃに混ざって、一つの空気になっていた。
光くんが笑った。ふはっ、と。
「ゆるい曲いくから、ちょっと座って休憩しなー」
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5万人が、座り始めた。
ざあっ、という音がした。衣擦れと、シートのきしみと、小さな笑い声が全部混ざった、不思議な音。立っていた人たちが次々と腰を下ろしていく。それが波みたいに広がっていく。アリーナの前方から、中央へ、後方へ。スタンドの下段から上段へ。
あたしも座った。隣の人も座った。その向こうの人も。
5万人が一斉に座る光景を、モニターが映していた。上から見下ろすカメラ——立っている光の粒が、さあっと低くなっていく。ペンライトの海面が、一気に下がった。
不思議な安堵感があった。座った瞬間、脚の疲れに初めて気づいた。そうだ、ずっと立ちっぱなしだったんだ。
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モニターに曲名が出た。
——『起きたらすでに昼だった日に弾いてみた曲』。
一瞬の間。
ぷっ、と誰かが吹き出して——笑いがスタジアム中に広がった。
「ゆるーい!」「起き昼だーー!」「その曲好きーーー!」「光くんらしいーー!」
光くんがピアノの前で苦笑していた。
「いや、もう完全に夜なんだけどね」
爆笑。5万人が声を上げて笑っている。さっきまで泣いていた人も、鳥肌が立っていた人も、全員が同じタイミングで笑っている。
なんだろう、この切り替え。数分前まで月の歌で涙を流していたのに、今はもう腹を抱えている。このライブ、感情のジェットコースターが激しすぎる。
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光くんが鍵盤に指を置いた。
ぽろん。
——ゆるい。
とてつもなく、ゆるい。
メロディが転がるように鍵盤から零れ落ちていく。急がない。力まない。日曜日の昼下がりに窓を開けて、カーテンが風に揺れている部屋の中で、なんとなく弾いている——そういう音だった。
ドラムがブラシで、ほんの少しだけリズムを添えた。ふわ、ふわ、と。叩いているのか撫でているのかわからないくらいの、やわらかい音。遥さんのキーボードが薄い和音を少しだけ。バンドも完全にゆるい空気に染まっていた。
光くんが鼻歌でメロディを歌い始めた。
言葉なのかメロディなのか、境界線がぼやけている。テンションが限りなく低い。日曜の午後に目が覚めて、あー昼だ、まあいいか、みたいな空気がそのまま音になっている。
5万人のスタジアムが、光くんの部屋みたいな空気になった。
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座ったまま、ゆったりと揺れている人がいた。
ペンライトを消して、膝の上に手を置いている人がいた。
目を閉じて聴いている人がいた。
隣の人---友達だろうか----に、もたれかかっている人がいた。
あたしもそうだった。背もたれに体を預けて、ただ聴いていた。力が抜けていく。さっきまでの興奮とか感動とか鳥肌とか、全部がゆるゆるとほどけて、体の中に沈んでいく。
ペンライトの色もばらばらだった。赤い人。青い人。オレンジの人。統一されていない。みんなが好きな色で、ゆるく光っている。
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途中から、メロディの色が少しだけ変わった。
コードがほんの少し沈んで、メロディがわずかに影を帯びた。さっきまでの脱力した明るさの中に、ちょっとだけ切ない風が入り込んだ。ムーディというか——夕方の部屋で、窓の外がオレンジから黒に染まっていくのをぼんやり見ている、あの感じ。
光くんが弾きながら、ふっと笑った。
「せっかくだから『起きたらすでに夜だった』って感じにちょっとアレンジしてみようかなと思って」
客席から笑いとツッコミが起きる。
「寝すぎー!」「ちゃんと起きなさいーーー!」
光くんが客席に向かって言った。
「でも、たまにない?」
「ないよーーーー!!」「あるかい!!」
「えーー、そうかー、みんなないのかーー」
光くんが本気で残念そうな顔をした。たぶん演技じゃない。本当にそう思っている顔だ。
スタジアムに笑い声が満ちていた。5万人が座ったまま、のんびりと、ゆるやかに笑っている。怒号みたいな歓声じゃない。リビングで家族と冗談を言い合っている時の、あの笑い。
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光くんは弾き続けている。
アレンジが変わった後の、少しだけ切ないメロディが、夜の空気に溶けていく。頭上には本物の月がある。さっきの『River of Moon』で見上げた、あの月。
でも曲の空気は全然違った。月を見上げて歌う曲じゃなくて、月が出ているのに気づかないくらいぼんやりしている曲。壮大さのかけらもない。ドラマも、感動も、何もない。ただ、心地いい。
——5万人のスタジアムが、世界一大きなリビングになった瞬間だった。
あたしは座ったまま、ペンライトをゆっくり揺らしていた。淡いオレンジ色。隣の人が同じくらいのテンポで揺らしている水色と、交互に光が揺れている。
曲が終わった。
拍手は——起きた。でも、さっきまでの爆発みたいなやつじゃない。ぱちぱち、ぱちぱち。穏やかで、あたたかい拍手。「良かったね」って言い合うみたいな拍手。
光くんがピアノの前で小さく手を振った。
「ちょっとは休めた?」
「「「うん」」」
5万人の「うん」が、笑いと一緒に返ってきた。全力の歓声じゃなくて、「うん」。5万人が同時に「うん」って言う光景。なんだそれ。おかしい。
光くんが笑った。嬉しそうに、ほっとしたように。
「よかった」
その一言が、マイク越しにスタジアムの隅々まで届いた。
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あたしは思った。
この人は、5万人を「5万人」として見ていない。
一人一人が疲れるし、一人一人の足が痛くなるし、一人一人にちゃんと座って休んでほしい。そう思っている。だから「座って休憩しな」が言える。だからこんなゆるい曲が挟める。
スタジアムの規模でも、ライブハウスや配信と同じことをやる。Happy Birthdayを歌ったのと、根っこは同じだ。
目の前にいる人間を、ちゃんと人間として見ている。
——500人でも、5万人でも、50万人でも。この人はきっと、ずっとこうなんだ。
さっきもそう思った。Happy Birthdayの時に。でも、今また同じことを思っている。同じ結論に、違う道から辿り着いている。
それは多分、光くんが同じことを何度も証明しているからだ。証明しようとしてじゃなく、ただそうしているだけで。
あたしはペンライトを握ったまま、少しだけ深呼吸をした。
休憩が終わる。次の曲が来る。
でも今は——このリビングの空気を、もう少しだけ。
毎日ガチ曲とガチ演出だけだと、読み疲れするよなぁというのと、ライブの観客も疲れるよなぁと思い、ゆる曲でした。




