第209話 お天気メドレー+α(後編)
『虹の向こうへ』——遥さんの柔らかいピアノのアルペジオの中、光くんが静かに歌い始めた。
ペンライトが——動いた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。虹の七色が、スタジアムの端から端へ、ゆっくりと流れていく。一色じゃない。帯になって、客席を横切るように、ゆるやかなアーチを描いて動いている。
モニターに会場全景が映った瞬間、あちこちで声が漏れた。
——虹だ。5万本のペンライトが、スタジアムの中に虹を架けている。
空気が、またがらりと変わった。
遥さんのキーボードが光くんの声のうしろで繊細にコードを広げている。ベースが弓弾きに切り替わった。弦を弓が擦る、あの柔らかくてほんの少しかすれた音が、ジャズから一歩だけクラシックの方に歩み寄る。ドラムのブラシが、ほとんど聴こえないくらいの優しさで揺れている。
フランスで見た、あのメドレーと同じ構成。同じ順番で、同じ曲を、今度は5万人の前で。ペンライトが、その天気の移り変わりを、そのまま色で再現していた。
あの時、画面の中で観ていた世界が、今、自分の体を包んでいる。
最後の音が、スタジアムの空に溶けた。
——静寂。
誰も動かなかった。余韻が、まだ空気の中に震えている。5万人が、その震えを壊すのが怖くて、息を詰めている。
拍手が起きかけた。
⸻
でも、光くんが動いた。
拍手を遮るように、ふと手を上げた。待って、と言うように。
——空を見上げ、軽く指差して笑った。
「……ねぇ、空を見てよ」
5万人が、一斉に空を見上げた。
夕焼けのオレンジがほとんど消えて、藍色が空を支配し始めている。西の端にだけ、最後の赤が残っている。そして反対側の空には——
「ほら、月が綺麗だね。満月かな」
5万人が息を呑んだ。あたしも、一瞬止まった。
空を見た。東の空の、藍色の深いところに、白い月が浮かんでいた。輪郭が空に溶けかけている月。でも確かにそこにあった。
「月ってことで『River of Moon』いこう」
遥さんの顔がモニターに映った。「はいはい、わかったよ」みたいな呆れ顔。でも呆れの中に笑いが混じっていた。やっぱりこいつはこうなんだ、という顔。
ベーシストとドラマーが苦笑しながら顔を見合わせて、うなずいた。
⸻
『River of Moon』——遥さんのキーボードが穏やかなイントロを紡ぎ始めた。
——ペンライトが、消えた。
5万本。一斉に。
雨の青も、晴れの白も、虹の七色も、全部消えた。客席が、一瞬で闇に沈んだ。
残ったのは、光くんを照らすスポットライトだけだった。丸い白の円が、アリーナの真ん中にぽっかり一つだけ落ちている。まるで——地上に降りた月だった。
息が、詰まった。
さっきまで色とりどりの光で溢れていたスタジアムが、突然、こんなにも暗くなれるのか。5万人がいるのに、光くんの周りの小さな円だけが世界のすべてみたいに見えた。
光くんがピアノの蓋から体を離した。マイクを片手に、ゆっくりとステージの端まで歩いた。
——座った。
ステージの縁に、すとん、と腰を下ろした。足がステージの外に投げ出される。スポットライトの円の中で、光くんが足をぶらぶらさせた。
(……え)
5万人の前で。スポットライトの中で。あんなふうに?
足をゆるく揺らしながら、光くんが歌い始めた。
月の光に照らされるような、柔らかい声。
さっきの雨の曲のけだるさとも、晴れの曲の明るさとも、虹の曲の繊細さとも違う。もっと遠くて、もっと静かで、もっと——寂しい。でもその寂しさが、痛くなかった。川の水面に映る月みたいに。
ステージの端に座って、足をぶらぶらさせて、歌っている。5万人のスタジアムの真ん中で。まるで夜の河原にひとりで腰かけて、月を見上げながら鼻歌を歌ってるみたいに。スケールがおかしいのに、空気だけが完璧に合っている。
ベースの弓弾きが、川の流れみたいにゆったりと音を運んでいる。ドラムはもうほとんど叩いていなかった。シンバルに指先を当てて、かすかな倍音だけを乗せている。
モニターに、会場全景が映った。
——真っ暗だった。5万人の客席が、完全な闇。その真ん中にぽつんと、スポットライトの丸い月が浮かんでいる。その月の中に、小さな人影が座っている。足をぶらぶらさせながら。
あたしは自分がその暗闘の一部だと思った。5万人の闇の中の、一粒。でもその一粒一粒が、全部あの月を見つめている。
曲が進むにつれて、空がさらに暗くなっていった。
藍色が濃紺に沈んで、夕焼けの最後の一筋が消えて、スタジアムの外の空が夜になった。会場の闇と、夜空の闇が、境界線を失って溶け合っている。頭上に本物の月。アリーナの真ん中にスポットライトの月。この場所にある月は二つだけで、光くんはその片方の中に座っていた。
光くんが歌っている。月の歌を。月の中で。月の下で。
フランスでは「ルナリアの一言」がトリガーだった。あの時は、異国の空の下で、二人のアーティストが音楽を生んだ。
でも今日は、この5万人の頭上にある空がトリガーだった。雨から晴れ、それから虹、そして最後に月。
フランスの天気メドレーが、日本の真夏の月で、スタジアムのスケールで、更新された。
最後の一音が消えた。
足が、止まった。ぶらぶら揺れていた足が、すっと静かになった。
夜だった。
スポットライトの月の中に座ったまま、光くんが目を閉じて空を見上げていた。
⸻
数秒間——誰も動かなかった。
5万人が。誰一人。
声も出さない。拍手もしない。まだあの曲の中にいるみたいに、全員が息を詰めて、夜の空気を吸い込んでいた。
——そして、爆発した。
「「「うわぁあああああ!!!」」」
5万人の歓声が、夜空に突き抜けていった。
歓声の中に、泣いている声が混じっていた。笑っている声が混じっていた。「天才」と叫んでいる声が聞こえた。「フランスと同じだ」と叫んでいる声が聞こえた。
光くんがステージの縁からすっと立ち上がった。少し足を振って感覚を戻すような仕草をして——笑った。遥さんを見て、ベーシストを見て、ドラマーを見て。
「ありがと」と口が動いた。マイクは通していなかった。でもモニターに映っていた。
遥さんが肩をすくめた。「まったく」と口が動いた気がした。
⸻
あたしは気づいたら、目が濡れていた。
いつからだろう。月が出た時からか。夜になった時からか。最後の音が消えた時からか。わからない。気づいたら、頬が湿っていた。
上手いとか、すごいとか、そういう感想じゃなかった。
「今この瞬間の空に合わせて曲を変えた」——その行為の意味が、体の奥にじわじわと染みていた。計算じゃない。演出じゃない。今、目の前にある空を見て、その場で決めた。それだけのことなのに。
あの空の色は、二度と同じにならない。あの夕焼けのグラデーションは。あの月の位置は。あの夜の訪れ方は。明日も明後日も空はあるけど、今日のこの空は、もう二度と来ない。
今日この場所にいた5万人だけが、あの空と、あの音楽の一致を知っている。
配信では、カメラが空を映したかもしれない。でも空気は映らない。夕方の風が首筋を撫でた感触は映らない。オレンジから藍色に変わっていく空の色が、光くんの歌う声の中に溶けていく、あの感覚は——画面の向こうには、届かない。
(……今日、ここにいて良かった)
ペンライトを握る手が、まだ震えていた。
あたしは5万人の中の一人で、一人ぼっちで来て、隣の人の名前も知らない。でも今、同じ空を見上げた。同じ音楽を聴いた。同じ夕暮れから同じ夜へ、一緒に移動した。
それだけで、十分だった。




