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第208話 お天気メドレー+α(前編)

「ここからは、『光くん』のターンね」


 その言葉が消えないうちに、光くんがバンドの方を振り返った。


「ちょっとバンドは休んでて」


 え、と思った。バンドも、観客も。さっきメドレーであれだけ盛り上げてくれたのに。


「ベースとドラムと——」


 光くんが客席側に戻って、もう一人の名前を呼んだ。


「遥さん」


 照明がすっと絞られた。


 ——空気が、変わった。


 さっきまでスタジアムだった場所が、一瞬で別の空間になった。バーのステージみたいな、シンプルで大人っぽい、ほのかに薄暗い空気。スポットライトが3つだけ——ベースとドラムと、キーボードの遥さんだけを照らしている。それ以外の照明は、全部落とされた。


 5万人のスタジアムが、こんなに小さくなれるのか。


 ギターが引いて、メインのバンドメンバーがステージ奥の闇に下がっていく。残されたのは最小限の編成。ベースとドラムと遥さんのキーボード。それだけ。


 光くんがゆっくりとグランドピアノの方に歩いた。


 ——座らなかった。


 立ったまま、グランドピアノの蓋に肘をついた。片手をすっと蓋の上に預けて、もう片方の手でマイクを握る。


 (……ジャズシンガーだ)


 ネイビーのセットアップに、ボタンを開けたシャツから鎖骨が覗いている。さっきまで女神ドレスを纏っていた人と同一人物とは思えない。艶のある革靴のつま先が、床を軽くリズムで叩いている。こつ、こつ、と。その小さな音がマイクに拾われるか拾われないかの距離で鳴っていた。


 あたしの周りから、悲鳴に近い声が上がっていた。


「かっこいい……」「何あの立ち方……」「ずるくない……?」


 ——女神ドレスの光ちゃんとは、別人だった。


 同じ人間が、同じステージの上にいる。でも、佇まいが、空気を纏う角度が、全部違う。男らしくて、スタイリッシュで、どこかセクシーで。5万人の前に、全然違う「光くん」が現れた。


 (……こんなの、反則だ)



 光くんが客席を見渡し言った。


「フランスでルナリアと即興でやった曲、覚えてる人いる?」


 ——あ。


 心臓が跳ねた。あたしだけじゃなかった。周りでも一斉にざわめきが起きた。


「え、お天気メドレー!?」

「あれやるの!?」

「雨→晴れ→虹のやつ!?」


 配信で見た人たちが、先に反応していた。フランスの生配信であの瞬間を見ていた人たちが。声が波のようにスタジアムに広がっていく——知っている人から知らない人へ、「あの曲だ」という情報が伝染していく。


 光くん、にやっと笑った。


「思いっきりジャズでやってみようかな」


 少し間。


 光くんが右手を上げた。マイクを持っていない方の手。指を鳴らした。


 パチン。


 乾いた音がスタジアムに響いた。たった一つの、小さな音。


 ——パチン。パチン。パチン。


 リズムを刻み始めた。スウィングのテンポで、小気味よく。5万人の沈黙の中で、指パッチンだけが鳴っている。


 遥さんのキーボードが、その指パッチンに寄り添うように、柔らかいイントロを差し入れた。


 ——ジャズだ。


 ブラシがシンバルの上をひそやかに這う。ささやくような金属の息遣い。ベースがウォーキングラインで歩き始める。深くて丸い音が、スタジアムの空気の底を温めるように広がっていく。遥さんの左手がコードを押さえて、右手がピアノの役割を引き受けている。光くんがやるはずの、あのピアノの役目を。


 指パッチンが止まった。代わりに——光くんが歌い始めた。


 『Stepin' in the Rain』——雨の曲。


 歌い出しの瞬間——ペンライトの色が変わった。


 5万本が一斉に青く染まった。深い、雨雲みたいな青。その中に白い光が混じって、上から下へ、さっと流れるように動いている。まるで雨粒が落ちているみたいに。ペンライトの連動機能が、曲に合わせて雨を降らせていた。


 モニターの映像が一瞬だけ切り替わった。会場全体を俯瞰するカメラ。スタジアムを上から見下ろすと——青い光の海の中を白い筋がさあっと降りていく。5万人の頭上に、雨が降っている。


 フランスでルナリアが歌っていたあの曲を、今度は光くんが歌っている。声色が全然違う。ルナリアの強烈な声じゃなくて、光くんの、少し低くて柔らかい声。大人っぽく、けだるく。マイクを握る手がリズムに合わせてゆるく揺れている。


 ピアノの蓋に肘をついたまま、立って歌う光くん。時折、片手で漆黒の蓋をトントンと叩いてリズムを取っている。指先が蓋を離れるたびに、小さな振動がピアノの弦に伝わって、かすかなハーモニクスが鳴った——たぶん、聴こえているのは近くにいるあたしたちだけだ。


 ふと、光くんがピアノの蓋から体を離した。


 マイクを持ったまま、花道をゆっくりと歩き始めた。歌いながら。ジャズの歌い方そのまま、足取りまでリズムに乗っている。


 花道の途中で立ち止まって、すぐ近くの観客を見下ろした。目が合った女の子に——にこっ、と笑った。ただそれだけ。でもその子が両手で口を押さえて崩れ落ちるのが見えた。


 反対側にも視線を送って、手を小さく振った。指先だけの、軽い挨拶みたいな振り方。それだけで、その一帯から悲鳴が上がった。


 5万人の体が、自然に揺れていた。


 手拍子じゃない。スウィング。腰から、肩から、体の芯がほどけるようにゆるやかに左右に揺れる、あの感じ。ライブハウスの興奮とは全然違う。夏の夜にバーで酒を飲みながら音楽を聴いている時みたいな、ゆるくて心地いい、体温が少しだけ上がるような揺れ方だった。


 青い雨の中で、5万人が揺れている。光くんが花道を歩きながら、その雨の中を泳いでいるみたいだった。


 (……あたし、今、5万人のバーにいる)



 雨が、晴れた。


 曲が切り替わる。シームレスに。遥さんが転調のブリッジを弾いて、ベースがラインを軽くして——空気の色が、すっと明るくなった。


 『Sunny Side of Pari's Street』——晴れの曲。


 ペンライトが一斉に変わった。青い雨が消えて、白と黄色の光がスタジアムを満たした。眩しいくらいの、陽射しの色。さっきまで雨が降っていた場所に、光が射し込んだ。


 明るい。空が開けるような、跳ねるようなスウィング。光くんの声がふわっと上がって、笑いが混じっている。歌いながら笑っている。楽しくて仕方がないという顔で。


 さっきまでの雨の曲の、けだるい色気が嘘みたいだ。同じ声なのに、声の中に入っている光の量が全然違う。ペンライトの色と一緒に、空気まで晴れた。


 間奏に入った瞬間、光くんが花道を戻って、ピアノの椅子に座った。


 鍵盤に指を落とす。遥さんのキーボードと——ピアノソロバトルが始まった。


 光くんが短いフレーズを弾く。遥さんがすぐに返す。光くんがもう少し複雑にして返す。遥さんが負けじと返す。光くんが笑って、わざとめちゃくちゃ難しいフレーズを弾く。遥さんが一瞬固まって、それからニヤッと笑ってあえてシンプルにしたフレーズを見事に返す。


 モニターに二人の顔が映っていた。光くんは完全に遊んでいる顔。遥さんは「このやろ……」みたいな顔。観客から笑いと歓声が混ざった声が上がっている。


 光くんが椅子からひょいと立ち上がって、またマイクを握った。ピアノにもたれかかって、何事もなかったかのように歌い始める。


 ——歌いながら、ジャケットの第一ボタンに手をかけた。


 さりげなく。自然に。歌の流れの中で、指先がボタンを一つ外した。


 周りがざわついた。


 二つ目のボタン。外す。肩が少しだけ露わになる。ネイビーのジャケットの下から、黒シャツの薄い生地越しに体のラインが覗く。首元にあるシルバーのチェーンがきらりと輝いた。


「きゃあああああ!!」


 悲鳴。あちこちから。


 光くんは歌い続けている。何でもないみたいに。でも口元がちょっと笑っている。わかってやっている顔だ。


 歌いながら——片方の袖を、するっと抜いた。肩から腕が出る。もう片方も。ジャケットが背中からずり落ちて、光くんが片手でキャッチした。


「「「きゃあああああああああ!!!」」」


 スタジアムが揺れた。悲鳴がもう歓声と区別がつかない。


 光くんがジャケットを片手でくるくると振り回しながら、客席を見渡した。あの、いたずらを思いついた時の目で。


 ——ぴっ、と一人を指差した。


 花道のすぐ横。最前列の女の子。指差された瞬間、その子の体が固まるのが見えた。


 光くんが笑って——ジャケットを、ふわっと投げた。


 ネイビーのジャケットが宙を舞って、その子の腕に落ちた。

 そして——ウィンク。


 ——数秒、時間が止まった。


 モニターがそのウィンクを抜いていた。巨大スクリーンに、光くんの片目を閉じた顔が大写しになっている。


「「「きゃあああああああああああ!!!!!」」」


 スタジアム中が沸騰した。花道の近くだけじゃない。スタンドの最上段まで、悲鳴と絶叫が津波みたいに駆け上がっていく。


 その子が自分の腕の中にあるものを見下ろして、震えている。隣のブロックから「ええええええ!?」「嘘!?」「サプライズ!?」と絶叫が連鎖していく。


 光くんはもう歌に戻っている。黒シャツ一枚になって、いつの間にか袖をぐいっと腕までまくり上げている。前腕が露わになって、さっきよりもっとラフで、もっとセクシーで。何事もなかったみたいに、ピアノにもたれかかって。


 ——この切り替え。座って弾いて、立って歌って、歩いて笑って。ピアニストとシンガーとエンターテイナーを自在に行き来する。全部できるからこそ成立する、贅沢な遊び。


 (……あの人、本当に楽しそうだな)


 そう思った瞬間、自分も笑っていることに気づいた。



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