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第207話 旅の追体験

 光ちゃんがステージ袖に消えて、スタジアムが暗くなった。


 ざわめきが広がっている。興奮と余韻と期待が、5万人の体温になって夕暮れの空気に混じっている。

 あたしもまだ心臓がどくどく言っている。たった3曲。たった3曲なのに。


 ——ドラムが、低くカウントを刻み始めた。


 暗いメインステージの奥。バンドがまだそこにいる。

 光ちゃんが退場しただけで、バンドは誰一人動いていない。


 ベースが、這うようなリフを入れた。重くて、深い。


 ——キーボードが、あのフレーズを弾き始めた。



 あたしの前の席の人が、息を呑んだ。


「ボヘミアン……?」


 知っている人だけが、先に反応していた。あちこちで、ぽつぽつと声が上がる。


「バンドアレンジ!?」

「嘘、映像!」


 巨大モニターに、映像が流れていた。


 小さなホール。ステージにグランドピアノが一台だけ。

 今より少しだけ幼い光くんが一人で座っている。まだ「光ちゃん」じゃない、白シャツにデニムにスニーカー、あの日の光くん。

 ——ツアー初日の映像だ。あの即興演奏を始めた瞬間の。


 モニターの中の光くんが鍵盤に指を落とす。転調。また転調。右手が高音域を遊ぶように駆け回り、左手が別世界のような和声を描いている。


 ステージの上では、バンドが同じ曲を鳴らしていた。

 キーボードが右手のフレーズを担い、ギターが左手の異世界的なラインを引き受けている。光くんが一人で弾いていたものを、バンドが何人もの手で再構築している。


 同じ曲。でも全然違う厚みがある。

 モニターの中の孤独なピアノと、ステージの上のバンドサウンド。片方はたった一人の音で、片方は何人もの音で、同じ景色を描いている。


 再会組の人たちの目が、光っていた。

 あたしは初めて聴いている。でも——映像の中の光くんの指が、鳥肌が立つくらい凄まじいことだけは、わかった。



 ボヘミアンの嵐が凪いだ。


 キーボードが、そっと——音を置いた。

 素朴な旋律。誰でも知っている、童謡の。


 モニターの映像が切り替わった。

 雪の降る地方都市。小さな会場。窓の外にちらちらと白いものが舞っている中で、光くんが静かにこの曲を弾いている。


 ——雪やこんこ。


 ギターのクリーントーンが、童謡のメロディをそっと拾った。ドラムがブラシに持ち替えて、柔らかく揺れている。


 あたしの前の席の人が、手で口を押さえていた。

 映像の中の光くんと、あの日の自分の記憶が重なっているのだろう。肩が、小さく震えていた。


 あたしは配信で聴いたことがあった。でもモニターに映るあの小さな会場の空気は、初めて見るものだった。空から降る雪と光くんの音が溶け合っている。あんな場所で、あんなふうに弾いていたのか。


 短い冬景色を描いて、音が消えた。



 静寂の後——ドラムが拍を踏み始めた。


 ベースがうねるようなグルーヴを入れる。


 モニターに映ったのは——福岡。光くんがニヤニヤしながら、謎の旋律を弾いている映像。


「あっ!! 福岡の謎の民謡!!!」


 スタジアムのどこかで、叫び声が上がった。


 ——一部のエリアだけ、異様にテンションが上がっていた。


 あたしの近くでは「え、何これ?」という顔をしている人がほとんどだった。でも、アリーナの向こう側のどこかのブロックと、スタンドの一角が、明らかにおかしなことになっている。手拍子と大合唱。完全にテンションが壊れている。


「……福岡勢だ」


 隣の人が笑いながら呟いた。


 モニターの中の映像も同じだった。光くんが弾いている福岡の小さな会場でも、一部のエリアだけ異様に盛り上がっている。今のスタジアムと、あの日の会場。同じ構図が再現されている。


 バンドがその温度差を楽しむように、盛り上がるエリアにスポットライトが向いた。

 ドラムが煽るようにフィルを入れて——最後は福岡勢だけじゃなく、全員の手拍子がスタジアムを揺らしていた。


 笑い声がスタジアムに満ちていた。



 ギターが、わざと一拍溜めた。


 ——そして弾いた。あのリフ。


「名古屋ーーー!!」


 名古屋勢が立ち上がった。

 『燃えよドラゴンナイツ』の応援歌。バンドがロックアレンジで叩きつけている。


 モニターに名古屋公演の映像が流れた。光くんが「名古屋ーーー!!」と叫んでいる。あの時と同じ曲を、今度はバンドが鳴らしている。


「名古屋ーーー!!」「おおおお!!!」


 スタジアムの名古屋勢が応える。いや、名古屋勢じゃない人たちも一緒になって叫んでいる。


 ——熱が上がりきったところで、ギターが切り替えた。


 『七光おろし』。タイガーワイルズの応援歌。

 モニターも切り替わる。光くんがニコニコしながら両チームの曲を往復していた、あの映像。


「タイガーワイルズいける!?」


 バンドのギタリストが叫んだ。光くんがいない間の、バンドだけのMC。


「「「おおおおお!!!」」」


 会場が割れた。ドラゴンナイツ側とタイガーワイルズ側で応戦している。バンドが丁寧に両チームを往復する。片方を盛り上げて、もう片方を盛り上げて。曲を混ぜない。順番に、敬意を持って。


 ——光くんと同じやり方だ。


 モニターの映像の中の光くんがやっていたことを、バンドがそのまま再現している。光くんがいなくても、この人たちは光くんのやり方をちゃんとわかっている。


 胸がじんとした。



 応援歌の喧騒が収まると、照明が変わった。


 赤と金の熱から、青と白の静謐へ。

 スタジアムの空気が、一瞬で澄んだ。


 キーボードが、一音を置いた。


 ドビュッシー。『月の光』。


 モニターの映像が変わった。

 京都。古い洋館の、小さなクラシックホール。薄暗い空間で、光くんが背筋を伸ばして座っている。指を揃えて、ペダルを浅く踏んで、一音一音を丁寧に、丁寧に置いていく。


 ステージのキーボードも同じ曲を弾いている。

 時間も場所も違う。片方は京都の小さなホールで、片方は5万人のスタジアムで。でも音楽が作っている空気は、同じだった。


 この曲だけは、まったく遊んでいなかった。

 さっきまでの応援歌のお祭り騒ぎが嘘みたいに、どこまでも静かで、どこまでも丁寧な音が、夜空に溶けていく。


 5万人が息を詰めていた。

 ペンライトの光が、淡い青に染まっている。5万の青い光が、月明かりみたいにスタジアムを照らしている。


 最後の一音が深く残って——モニターの映像がゆっくりとフェードアウトした。


 余韻だけが、スタジアムを満たしている。



 ——あたしは、全国ツアーに行っていない。


 配信で見ただけだ。画面の向こう側で起きていることを、スマホの小さな画面で眺めていただけだ。


 でも今、モニターの映像とバンドの生演奏で、あの旅の断片に触れた気がした。

 小さなホールの熱気。雪の街の静けさ。福岡の笑い声。応援歌の大合唱。月の光の静寂。


 光くんがたった一人のピアノで巡った旅を、バンドが、映像が、この場所で追体験させてくれている。


 「プレゼント」って、これだったのか。



 余韻の中から、音が変わり始めた。


 キーボードのストリングスの音色が、ゆるやかに厚みを増していく。月の光の静謐が、少しずつ温度を帯びていく。

 ギターが小さなフレーズを加えた。ドラムが静かに刻み始めた。


 照明がゆっくりと明るくなっていく。

 青と白から、温かい光へ。


 客席がざわめいた。


「来る……?」

「着替え終わった?」

「光ちゃん……いや、光くん?」



 照明が全て消え、メインステージ中央に、スポットライトが一本だけ落ちた。


 そこに、人影が立っていた。


 ——さっきまでとは、全然違う姿だった。


 ネイビーのセットアップに黒の革靴。黒いシャツのボタンを一つ多めに開けて、鎖骨が覗いている。髪は後ろでまとめられて、首のラインが露わになっている。


 女神ドレスの「光ちゃん」は、もういなかった。

 そこにいるのは、男らしくて、スタイリッシュで、どこかセクシーな「光くん」だった。


 光がマイクを持った。少し笑った。一呼吸。


「改めまして」


 少し間。

 客席が息を呑んでいる。


「えーっと、光……"くん?"かな」


 一瞬の静寂。


 ——爆発。


「光くーーーーん!!!」「かっこいいいいい!!」「別人すぎるうううう!?」「付き合ってーー!!!!」「イケメン!!!!!」「結婚してーーー!!!」


 5万人の歓声が、スタジアムを揺らした。

 さっきまでの「光ちゃーん」とは全然違う種類の歓声。悲鳴に近い。


 光くんが笑った。照れたような、でも楽しそうな顔。


「みんなさ、メドレーどうだった?」


「「「最高ーーー!!!」」」


「バンドの皆がさ、俺が着替えてる間、こんなに盛り上げてくれたんだ」


 メインステージの奥にいるバンドに向かって、光くんが拍手をした。客席も一斉に拍手を返す。バンドのメンバーが手を上げて応える。


「さっきまでは——『光ちゃん』のターンだったけど」


 少し間を置いて。悪戯っぽく笑う。


「ここからは、『光くん』のターンね」


 歓声が弾けた。


 ライブの第2幕が、始まった。


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