第206話 ハピバinスタジアム
歓声がまだ鳴り止まない中、光ちゃんがステージの中央で肩を上下させていた。
『支配の女王』の余韻が、空気の中にまだ焦げ付いている。赤いペンライトの海が揺れている。5万人の興奮が、温度として肌に伝わってくる。
光ちゃんが息を整えて、客席を見渡した。
少し笑って。
「さっきさ」
声が、さっきまでの超高音とは別人みたいに穏やかだった。
「"ついてこれてる?"って聞いたけど」
「うぉおおお!!!」
光ちゃんが、歓声を手で制するでもなく、受け止めるでもなく、ただ笑っている。
「じゃあさ。一つ、いつものやつやっていい?」
観客がざわついた。
——あたしの周りで、小さな悲鳴が上がった。
あたしの前の席の人が、隣の人の腕をバシバシ叩いている。
「あれだ」「あれやるのかな!?」「嘘、スタジアムで!?」
全国ツアーに行ったことのある人たちだ。「いつものやつ」の意味を、知っている人たち。
あたしは知らなかった。でも、その人たちの反応だけで、何か特別なことが始まるのだとわかった。
⸻
光ちゃんが、客席を見た。
「今日、誕生日の人いる?」
一瞬の間。
あちこちで手が上がった。ぱらぱら、ぱらぱら。でもすぐに増えていく。5万人もいれば、当然たくさんいる。
光ちゃんが笑った。
「ははっ。そりゃいるよなぁ」
客席が笑う。あたしも笑った。
「じゃあさ。せっかくだから——みんなで歌おうか」
⸻
光ちゃんが歩き出した。
メインステージから、花道へ。
女神ドレスの裾が、歩くたびにふわりと揺れる。長い髪が背中で揺れている。ヒールの音が——聞こえるはずないのに、聞こえる気がした。
花道を歩いてくる。観客のど真ん中へ。
あたしたちの方に向かって、一歩ずつ近づいてくる。
周りがざわざわしている。
近い。さっきまでメインステージにいた光ちゃんが、あたしたちのすぐそばに来ている。
T字ステージの先端。グランドピアノ。
光ちゃんが椅子に座った。
静かな空気が、すとんと戻ってきた。
2曲目の爆音の後の、この静けさ。耳が慣れるまで、少しかかる。
⸻
ポロン……ポロン……。
やわらかな音が、鍵盤から零れ落ちた。
あの曲だ。誰でも知っている、あの曲。
光ちゃんが静かに歌い出した。
「Happy birthday to you……」
声が、透き通っていた。
さっきまでシンフォニックメタルを歌っていた喉から、こんなにやさしい声が出る。同じ人だと思えない。
客席のどこかから、歌声が重なった。小さく、おずおずと。
でも次の小節で、別の場所からも。また別の場所からも。
「Happy birthday to you……」
5万人の合唱が、じわじわと広がっていく。
最初は小さかった歌声が、スタジアムの壁に反射して、どんどん厚くなっていく。屋根のないスタジアムの夕空に向かって、5万人の声が昇っていく。
あたしも歌っていた。いつの間にか、口が動いていた。
⸻
光ちゃんのピアノが、フレーズを紡いでいく。
「Happy birthday dear——」
少し間。
ピアノの手が止まった。光ちゃんが客席を見渡す。
「——今日、誕生日の人!」
指差しじゃない。5万人の中にいる、今日誕生日の全員に向けた声。
5万人が、一斉に叫んだ。
「「「HAPPY BIRTHDAY TO YOU!!!」」」
空が震えた。
屋根がないから、声がどこまでも抜けていく。5万人分の「おめでとう」が、夕焼けの空に消えていく。
光ちゃんが、目を細めていた。
泣いてはいない。でも、泣きそうな、笑いそうな、その中間の、やわらかい顔をしていた。
——あちこちで、本当に泣いている人がいた。
誕生日の人だけじゃない。あたしの前の席の、さっき「あれだ」と言っていた人が、手で顔を覆っている。
全国ツアーで聞いた同じやりとりを、5万人のスタジアムで、また聞いている。あの小さなライブハウスの光景が、この規模で再現されている。
スケールが変わっても、光くんはこれをやるんだ。
500人でも、5万人でも、50万人でも、きっとこれをやるんだ。
——そう思ったら、あたしも泣いていた。初めて来たのに。
⸻
光ちゃんが、ニッと笑った。
空気が変わった。
ピアノの椅子から、すっと立ち上がった。
マイクスタンドからマイクを抜き取って、メインステージの方を指差す。
「よーーし」
声のトーンが上がる。悪戯っぽい。
「ロックアレンジ、行ってみようか!」
客席がどよめく。
——その瞬間、巨大モニターがメインステージのバンドを映した。
遥さんが映っていた。キーボードの前で、額に手を当てて、やれやれという顔をしている。口が動いた。音は拾えなかったけど、「聞いてない」と言っているように見えた。
客席が爆笑した。
「え、今の予定にないやつ!?」「アドリブ!?」「遥さんの顔ーーー!!」
あたしも笑った。でも同時にぞくっとした。今のHappy Birthdayの流れが全部美しすぎて、完璧に計算された演出だと思っていた。——違うの? これ、光ちゃんが今この瞬間に思いついたの?
光ちゃんがマイクを握ったまま、メインステージのバンドを指差した。
「みんなー!もう一周歌うよーーー!」
モニターの中の遥さんが、一瞬天を仰いで——それからふっと笑って、キーボードに指を置いた。
次の瞬間——
ドン!!
メインステージからドラムの一撃が飛んできた。腹の底を突き上げる衝撃。
続けてギターが切り込んだ。ジャーーン!!
ベースが唸る。遥さんのキーボードがオーケストラみたいな和音を重ねる。
Happy Birthdayが、ロックに変貌した。
さっきまでのピアノ弾き語りの静かな祝福が、一瞬でスタジアムを揺らすバンドサウンドに塗り替えられた。同じ曲なのに全く違う。優しい子守歌がロックアンセムになった。
「「「Happy birthday to you!!!」」」
5万人が叫んでいる。もう合唱じゃない。シャウトだ。
手拍子が地鳴りみたいにスタジアムを震わせている。ペンライトが揺れまくっている。
光ちゃんがマイクを握って、花道の先端に立っている。ピアノの前じゃない。観客の真ん中で、バンドの爆音を背に受けて、ドレスの裾を翻して回りながら歌っている。
「「「Happy birthday to you!!!」」」
二周目のサビ。5万人の声量がさらに上がる。もう制御不能だった。
光ちゃんが客席を見渡して——満面の笑顔で叫んだ。
「今日ここにいるみんなの誕生日ってことで!!」
「「「わぁあああああ!!!」」」
スタジアムが揺れた。笑い声と歓声と歌声が全部混ざって、一つの巨大な祝福になっている。
⸻
最後の一音が鳴り響いた。
バンドが止まった。
歓声の嵐。
光ちゃんは立ったまま、息をついて——客席に向かって、小さく手を振った。
「おめでとう」
その一言が、マイク越しに、スタジアムの隅々まで届いた。
また泣いている人がいた。笑っている人がいた。隣の人と抱き合っている人がいた。
たった1曲のHappy Birthdayが、5万人の中で、これだけの感情を動かしている。
⸻
光ちゃんがピアノから立ち上がった。
「じゃ、ちょっとお着替えしてくるね」
客席がざわめく。
「えー!」「行かないでー!」
光ちゃんが笑った。
「すぐ戻るから。——その間、みんなにプレゼント用意してあるよ」
何かを含んだ、いたずらっぽい笑み。
花道を歩いてメインステージに戻っていく。白いドレスの裾が、ペンライトの光を受けて揺れている。
光ちゃんがステージ袖に消えた。
3曲目が終わった。
感動、興奮、そして——祝福。
たった3曲で、このライブはもう「普通のライブ」じゃなくなっていた。
暗くなったステージを見つめながら、あたしは思った。
——「プレゼント」って、なんだろう。
続きはまた明日〜〜
明日も5話一気に投稿します。




