第205話 支配の女王
夕暮れの薄闇の中で、空気が変わった。
1曲目の余韻がまだスタジアムに漂っている。あちこちで興奮のざわめきが聞こえる。でも、それとは別の何かが、じわりと這い上がってきていた。
低いストリングスが鳴り始めた。
重い。暗い。
スタジアムの床から湧き上がるような、地の底を引きずる音。さっきまでの温かいピアノの響きとは、全く違う質感だった。
ざわめきが静まっていく。代わりに、別のざわめきが広がる。
「何が始まる……?」
「え、なにこれ……」
ペンライトが、一斉に色を変えた。
さっきまで淡い色で光っていた5万本のペンライトが、全て鮮烈な赤に染まる。スタジアム全体が赤い輝きを放った。
空気の温度が、下がった気がした。
真夏の夜なのに、背筋にひんやりとしたものが走る。
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メインモニターが、点いた。
右のモニターに——ルナリア。
左のモニターに——光ちゃん。
二人とも、こちらを向いていた。まっすぐに。カメラを。
映像だ。録画。二人とも、今ここにいるわけじゃない。
それでも——スタジアムの5万人が、一瞬で息を飲んだ。
あたしの隣で、誰かの体が強張った。あたし自身がそうだったのかもしれない。
ルナリアが口を開いた。
『——世界を支配するのは、誰?』
声の圧が、違った。
スクリーン越しなのに。録画なのに。その一言が、スタジアムの空気を根こそぎ塗り替えた。熱かった空気が、凍りついたみたいに動かなくなった。
「おおお……」
ざわめきが波のように広がっていく。でもそれは、喜びじゃなかった。
恐れ、みたいなもの——本物の凄みを前にしたとき、体が咄嗟に出す、あの感覚。
「ルナリア!?」という声があちこちから上がった。あたしも全身に鳥肌が立っていた。
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左のモニターの光ちゃんが、ゆっくり笑った。
挑むような笑み。でも、楽しそうだった。
心から、楽しそうだった。
『答えは——』
一瞬の、静寂。
5万人が、息を止めた。
音が消えた。照明の唸りさえ聞こえないような、張り詰めた真空の中で——
次の瞬間——スクリーンの中の二人が、同時に口を開いた。
『私たちよ。』
録画と録画。
距離も、時間も超えた二つの声が、完璧に溶け合った。
ルナリアの圧倒的な低音と、光ちゃんの澄んだ高音が、一つの言葉の中で交差して——重なって——一つになった。
鳥肌が、腕から肩へ、背中へ、頭の天辺まで駆け上がった。
涙が出そうだった。なんで、と思った。なんでこの瞬間に涙が出そうになるのか、あたしには説明できなかった。
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モニターが落ちた。
スタジアムが、暗くなった。
赤い照明だけが、底にぼんやりと残っている。すべてが紅く染まった闇の中で、5万人がそこにいた。
誰も動かない。声も出ない。
あたしの心臓が、耳の奥でうるさいくらいに鳴っていた。
——息を吸う音が、聞こえた。
深く。大きく。
ステージのマイクが拾った、一人分の息の音が、沈黙ごとスタジアム全体に広がった。
あの息の音で、あたしはわかった。
来る、と思った。
「Ahhhhhhhhh!!」
超高音のシャウト。
天井を突き抜けて、夜空を引き裂いて、どこまでも伸びていく——信じられないような高音域の声が、スタジアムの空気を縦に切り裂いた——
——そこに、バンドが一気に合流してきた。
ツインギターが唸った。地の底から噴き上がるような、重低音の濁流。ドラムが大地を叩くように炸裂する。
照明がステージを白く焼き尽くした。次の瞬間、スタジアム全体が赤と金の炎の中に沈む。
あたしは、声が出なかった。
女装の見た目だけじゃない。声まで、ルナリアの領域に踏み込んでいる。あのルナリアのキーを、光ちゃんが一人で、生声で、この場所で、今この瞬間に叩きつけている。
信じられない。信じられないのに——確かに、聞こえている。
「うぉおおおおお!!!」
スタジアムが沸騰した。
叫んでいるのか、歓声なのか、泣いているのか、もう区別がつかない。全部が一緒くたになって、一つの巨大な感情の塊が、スタジアムの中を暴れ回っていた。
ペンライトが赤と金で交互に変わる。
5万本の炎が、スタジアムを燃やしている。
あたしのペンライトも、その中の一本だった。
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バンドが全力で鳴っている。
シンフォニックメタル。
重いギターリフがステージを揺らし、ドラムが暴れ回っている。ツインギターが左右から壁のように音を積み上げる。その上にキーボードのオーケストラサウンドが重なって、二胡の鋭い旋律が切り込んでくる。ヴァイオリンが高音域で叫んでいる。
遥さんのキーボードが、バンド全体を束ねている。光ちゃんがメインステージの中央で歌い上げている間、遥さんの指がバンドに指示を出すように動いている。アイコンタクト。タイミングの合図。光ちゃんが歌に全力を注げるように、バンドの手綱は遥さんが握っていた。
女神ドレスの光ちゃんが、シンフォニックメタルを歌っている。
ありえない絵面だった。
白いドレス。長い髪。天使みたいな見た目から放たれる、地獄の底から噴き上がるような音圧。美しさと暴力が、一人の体の中で共存している。
ルナリアとのコラボ曲——『支配の女王』。
スタジアムの空気が、1曲目の温かさから一変して、圧倒的な「力」で塗り潰されていく。
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サビに入った。
光ちゃんの声が、さらにギアを上げた。
バンドの音圧を突き破って、声だけが空に抜けていく。マイクが割れそうなくらいの声量。なのに音程は微塵もぶれない。
メインステージのモニターに、光ちゃんの表情が映った。
汗が飛んでいる。目が据わっている。笑っている。
——楽しんでいる。この曲を、この舞台を、この瞬間を。
5万人が圧倒されている。
さっきまで歓声を上げていた人たちが、声も出せずに立ち尽くしている。口が開いたまま、目の前で起きていることを処理しきれていない。
あたしもそうだった。
1曲目で「この人は何でもできるのか?」と思った。
2曲目で「この人は何でもできるんだ」と思った。
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最後のロングトーンが、スタジアムに響き渡った。
光ちゃんが声を伸ばしている。どこまでも、どこまでも。
バンドが最後の一音を叩きつけて——止んだ。
声が、消えた。
残ったのは、反響と、右手とその人差し指を高く上に伸ばして立ち尽くす光ちゃんの姿。
静寂。
1秒。2秒。
——爆発。
5万人の歓声が、スタジアムを揺らした。
足を踏み鳴らす音。叫び声。拍手。全部が混ざって、一つの巨大な音になっている。
光ちゃんがステージの中央で、荒い息をついている。
汗で額に髪が張り付いている。ドレスの肩が上下している。
それでも——笑っていた。
モニターに映るその笑顔を見て、また歓声が重なった。
たった2曲。
感動と、興奮。
このライブがどこまで行くのか、もう誰にも予想がつかなかった。




