表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

206/232

第204話 また会ったねと、初めましてねと(後編)

 光くんが、歌い出した。


 ピアノと声だけ。

 それ以外の音が、何もない。


 5万人が静まり返っている。

 さっきまでの歓声が嘘みたいに、スタジアムが沈黙していた。息を殺すとか、そういうレベルじゃない。5万人全員が、あの一つのピアノと一つの声に意識を持っていかれている。


 あたしの真横で、光くんが歌っている。


 ドレスの裾が、ペダルを踏む足にかすかに揺れる。鍵盤を叩く指が、歌に合わせて踊るように動いている。マイクを通した声がスタジアム中に響いているけど、あたしの耳にはその下に、マイクが拾いきれない生の息遣いが混じっている。


 声が震えているわけじゃない。むしろ、澄み切っている。

 でも、その澄み方が、胸を刺すように痛い。


 歌詞が聞こえてくる。

 「また会ったね」と歌っている。「初めまして」と歌っている。さっきのMCがそのまま歌になったみたいだ。でも歌になった瞬間に、言葉の重みが全然違うものになっている。


 周りの人が泣いているのが、気配でわかった。あたしも泣いていた。いつから泣いていたのか、わからない。



 1番が終わった。


 ピアノだけの間奏に入る。光くんの指が、穏やかなフレーズを紡ぎ続けている。

 5万人がまだ静まり返ったまま、その音を聴いている。


 ——ふいに、巨大モニターの映像が切り替わった。


 花道の先端の光くんではなく、メインステージが映っている。


 暗いステージの上に、人影が並んでいた。


 ドラムセット。ベース。ツインギター。キーボードが二台。パーカッション。ヴァイオリン。そして——二胡。

 九人が、もうそこにいた。


 —— 二台あるキーボードの一台に、見覚えのあるシルエットがいた。

 遥さんだ。

 最近演奏する時は、いつも光くんの隣にいる、あの遥さんがバンドの中にいる。


「えっ——」


 声が出た。あたしだけじゃない。スタジアムのあちこちから、ざわめきが広がっていく。


「バンド!?」

「いつからいたの!?」

「え、嘘、全然気づかなかった……!」


 あたしも全く気づかなかった。1番の間、目の前の光くんしか見ていなかった。5万人がピアノと歌声に集中している間に、メインステージの暗闇の中で、バンドが静かに配置についていたのだ。



 間奏が続いている。

 光くんがゆっくりと、ピアノの椅子から立ち上がった。


 ピアノの音が止まる。

 間奏のフレーズを、メインステージのキーボードが引き継いだ。音が途切れない。ピアノからキーボードへ、バトンが渡された。


 ピアノに置いてあった何かを頭に添える。ヘッドセット? 耳につける何か?


 光くんが花道の先端に向かって歩いていく。ドレスの裾が風に揺れている。

 5万本のペンライトの光を見渡して——ふと、悪戯っぽく微笑んだ。


 「みんなのとこ、いくよ」


 次の瞬間、光くんの体が浮いた。


 ワイヤー。

 体がゆっくりと持ち上がっていく。花道の先端から、空へ。


 悲鳴が上がった。


「飛んでる!」「飛んでる!!」「嘘でしょ!?」


 ドレスの白が、夕暮れの空に舞い上がっていく。スポットライトが追いかける。5万人の視線が、一斉に空を見上げた。



 その瞬間——メインステージでドラムが鳴った。


 ズン、と。腹の底に響く一撃。


 続けてギターが切り込んでくる。ベースが唸る。キーボードが厚い和音を重ねる。

 さっきまでピアノだけだった曲が、一瞬でバンドサウンドに変貌した。


 音の壁だった。


 弾き語りの繊細さが、バンドの爆発に塗り替えられていく。同じ曲なのに、全く別の曲みたいだった。1番の静けさは、この爆発のための溜めだったのだ。


 空中にいる光くんが、2番を歌い出した。


 声が、さっきと全然違う。

 弾き語りの時の澄んだ声から、バンドの音圧に負けない力強い声に変わっている。でも綺麗さは消えていない。力と透明さが同時にある、ありえないバランスの声。


 光くんが空を飛びながら歌っている。

 ワイヤーがスタジアムの上空を横切って、光くんがアリーナの上を移動していく。スタンド席に近づいて、また離れて。ドレスの白が夕暮れの風になびいて、スポットライトの光を散らしている。



♦︎♦︎ スタジアム3階、最上段スタンド席 ♦︎♦︎


 1番の間、光くんは米粒だった。


 花道の先端の、白い点。肉眼ではドレスの輪郭すらわからない。だからモニターを見ていた。モニターに映る光くんの表情を追いかけて、それでも十分すぎるくらい泣いていた。


 弾き語りの声は、ここまでちゃんと届いていた。スタジアムの音響が、最上段にも同じ音を届けてくれる。だから、遠いけど、遠くなかった。


 ——でも。


 2番が始まった瞬間に、光くんが空に浮いた。

 モニターから目を離した。肉眼で見える。白い点が、空を動いている。


 こっちに来ている。


 こっちに、来ている。


 アリーナの上空を横切って、スタンド席の方に近づいてくる。高度が上がっていく。白い点が、だんだん大きくなっていく。ドレスの形がわかる。髪がなびいているのがわかる。


 3階の手すりの近くまで来た。


 近い。モニターじゃない。肉眼で、光くんが見える。

 夕暮れの空を背景に、白いドレスの光くんが宙に浮いている。バンドの音が下から突き上げてくる中で、歌いながら、こっちを見ている。


 ——目が合った気がした。


 気がしただけかもしれない。この距離で目が合うわけがない。でも、光くんがこっちに向かって、左手をすっと伸ばした。


 指差し。


 この辺り一帯に向けた、大きなファンサ。あたしだけに向けたものじゃない。わかってる。わかってるけど——


 隣の友達が「指差し!!!」と叫んだ。後ろの人が崩れ落ちた。あたしは声が出なかった。ペンライトを握りしめたまま、立ち尽くしていた。


 光くんは次のエリアに向かって飛んでいった。


 膝が震えていた。

 モニターの中の人じゃなかった。本物が、ここまで来てくれた。最上段の、一番遠い席にも、光くんは飛んで会いに来てくれた。



♦︎♦︎ 花道先端、アリーナ席 ♦︎♦︎


 空を飛ぶ光くんを見上げている。


 スタジアムの端から端まで。

 上も下も、右も左も。5万人の誰もが「近くに来てくれた」と思える軌道で、光くんは空を軽やかに飛んでいる。


 スタジアムの全方位から歓声が止まない。歌が響いている。バンドの音が地面を震わせている。

 全部が同時に、5万人の頭上で渦を巻いている。



 サビが終わった。


 光くんが、ゆっくりとメインステージに降りていく。

 ワイヤーが体を下ろしていく。ドレスの裾がふわりと広がって、スポットライトの中に降り立った。


 着地。


 バンドの最後の一音が鳴り響いて、止んだ。


 一瞬の静寂。


 それから——5万人の歓声が、爆発した。

 スタジアムの構造体が震えているのがわかる。座席の下から、振動が伝わってくる。


 光くんがメインステージの中央に立っている。息を整えて、少し笑って——


「改めまして」


 少し間。


「光..."ちゃん"です」


 スタジアムが壊れるかと思った。


「光ちゃーーーん!!!」「かわいいいいいい」「綺麗いいいい」「好きいいいいいいい」


 5万人が叫んでいる。あたしも叫んでいた。いつの間にか立ち上がっていた。



 そんな中、歓声から一際通る声が飛んだ。


「そんな格好でフライングしたらパンツ見えちゃうよーーー!!!!」


 スタジアムが一瞬、爆笑に包まれた。


 光ちゃんがきょとんとして、それから声のした方を見て笑った。


「えー、キュロット履いてるから大丈夫って、衣装さん言ってたよ」


 そう言いながら、ドレスのスカートの裾をすすすっと捲り上げた。

 モニターに大写しになる。

 短いキュロットと——そこから伸びる、白くて細い生脚。太ももまでしっかり見えている。


 スタジアムが壊れた。二回目。


「きゃああああ!!!」「脚!!!」「見せるなああああ!!!」「いや見せて!!!」


 さっきの「光ちゃんです」の歓声を超える絶叫が、スタジアムを震わせた。光ちゃんはスカートを元に戻して、何事もなかったみたいにけろっと笑っている。



 光くん——光ちゃんが、肩をすくめた。


「花火、瞬間移動、女装、フライング……」


 指折り数えるような仕草。

 少し間を置いて。


「飛ばし過ぎた? みんな、ついてこれてる?」


「「「わぁあああああ!!!」」」


 スタジアムが揺れた。返事というより、もう咆哮だった。


「めっちゃ元気だなぁ!!」


 光ちゃんが嬉しそうに笑った。

 その笑顔がモニターに大きく映って、また歓声が重なった。


 ——と、歓声が鳴り止まないまま、ステージの照明がすとんと落ちた。


 暗転。


 1曲目が終わった。

 たった1曲にすでに信じられないほどの密度が詰め込まれていた。


 まだ1曲目が終わっただけだ。

 このライブは、まだ始まったばかりなのだ。


 暗闇の中で、心臓がどくどくと鳴っている。

 隣の人の息が荒い。後ろの人が「やばい」と呟いている。


 あたしは暗闇の中で、ペンライトを胸に抱いていた。


 (……これが、まだ1曲目なの?)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ