第204話 また会ったねと、初めましてねと(後編)
光くんが、歌い出した。
ピアノと声だけ。
それ以外の音が、何もない。
5万人が静まり返っている。
さっきまでの歓声が嘘みたいに、スタジアムが沈黙していた。息を殺すとか、そういうレベルじゃない。5万人全員が、あの一つのピアノと一つの声に意識を持っていかれている。
あたしの真横で、光くんが歌っている。
ドレスの裾が、ペダルを踏む足にかすかに揺れる。鍵盤を叩く指が、歌に合わせて踊るように動いている。マイクを通した声がスタジアム中に響いているけど、あたしの耳にはその下に、マイクが拾いきれない生の息遣いが混じっている。
声が震えているわけじゃない。むしろ、澄み切っている。
でも、その澄み方が、胸を刺すように痛い。
歌詞が聞こえてくる。
「また会ったね」と歌っている。「初めまして」と歌っている。さっきのMCがそのまま歌になったみたいだ。でも歌になった瞬間に、言葉の重みが全然違うものになっている。
周りの人が泣いているのが、気配でわかった。あたしも泣いていた。いつから泣いていたのか、わからない。
⸻
1番が終わった。
ピアノだけの間奏に入る。光くんの指が、穏やかなフレーズを紡ぎ続けている。
5万人がまだ静まり返ったまま、その音を聴いている。
——ふいに、巨大モニターの映像が切り替わった。
花道の先端の光くんではなく、メインステージが映っている。
暗いステージの上に、人影が並んでいた。
ドラムセット。ベース。ツインギター。キーボードが二台。パーカッション。ヴァイオリン。そして——二胡。
九人が、もうそこにいた。
—— 二台あるキーボードの一台に、見覚えのあるシルエットがいた。
遥さんだ。
最近演奏する時は、いつも光くんの隣にいる、あの遥さんがバンドの中にいる。
「えっ——」
声が出た。あたしだけじゃない。スタジアムのあちこちから、ざわめきが広がっていく。
「バンド!?」
「いつからいたの!?」
「え、嘘、全然気づかなかった……!」
あたしも全く気づかなかった。1番の間、目の前の光くんしか見ていなかった。5万人がピアノと歌声に集中している間に、メインステージの暗闇の中で、バンドが静かに配置についていたのだ。
⸻
間奏が続いている。
光くんがゆっくりと、ピアノの椅子から立ち上がった。
ピアノの音が止まる。
間奏のフレーズを、メインステージのキーボードが引き継いだ。音が途切れない。ピアノからキーボードへ、バトンが渡された。
ピアノに置いてあった何かを頭に添える。ヘッドセット? 耳につける何か?
光くんが花道の先端に向かって歩いていく。ドレスの裾が風に揺れている。
5万本のペンライトの光を見渡して——ふと、悪戯っぽく微笑んだ。
「みんなのとこ、いくよ」
次の瞬間、光くんの体が浮いた。
ワイヤー。
体がゆっくりと持ち上がっていく。花道の先端から、空へ。
悲鳴が上がった。
「飛んでる!」「飛んでる!!」「嘘でしょ!?」
ドレスの白が、夕暮れの空に舞い上がっていく。スポットライトが追いかける。5万人の視線が、一斉に空を見上げた。
⸻
その瞬間——メインステージでドラムが鳴った。
ズン、と。腹の底に響く一撃。
続けてギターが切り込んでくる。ベースが唸る。キーボードが厚い和音を重ねる。
さっきまでピアノだけだった曲が、一瞬でバンドサウンドに変貌した。
音の壁だった。
弾き語りの繊細さが、バンドの爆発に塗り替えられていく。同じ曲なのに、全く別の曲みたいだった。1番の静けさは、この爆発のための溜めだったのだ。
空中にいる光くんが、2番を歌い出した。
声が、さっきと全然違う。
弾き語りの時の澄んだ声から、バンドの音圧に負けない力強い声に変わっている。でも綺麗さは消えていない。力と透明さが同時にある、ありえないバランスの声。
光くんが空を飛びながら歌っている。
ワイヤーがスタジアムの上空を横切って、光くんがアリーナの上を移動していく。スタンド席に近づいて、また離れて。ドレスの白が夕暮れの風になびいて、スポットライトの光を散らしている。
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♦︎♦︎ スタジアム3階、最上段スタンド席 ♦︎♦︎
1番の間、光くんは米粒だった。
花道の先端の、白い点。肉眼ではドレスの輪郭すらわからない。だからモニターを見ていた。モニターに映る光くんの表情を追いかけて、それでも十分すぎるくらい泣いていた。
弾き語りの声は、ここまでちゃんと届いていた。スタジアムの音響が、最上段にも同じ音を届けてくれる。だから、遠いけど、遠くなかった。
——でも。
2番が始まった瞬間に、光くんが空に浮いた。
モニターから目を離した。肉眼で見える。白い点が、空を動いている。
こっちに来ている。
こっちに、来ている。
アリーナの上空を横切って、スタンド席の方に近づいてくる。高度が上がっていく。白い点が、だんだん大きくなっていく。ドレスの形がわかる。髪がなびいているのがわかる。
3階の手すりの近くまで来た。
近い。モニターじゃない。肉眼で、光くんが見える。
夕暮れの空を背景に、白いドレスの光くんが宙に浮いている。バンドの音が下から突き上げてくる中で、歌いながら、こっちを見ている。
——目が合った気がした。
気がしただけかもしれない。この距離で目が合うわけがない。でも、光くんがこっちに向かって、左手をすっと伸ばした。
指差し。
この辺り一帯に向けた、大きなファンサ。あたしだけに向けたものじゃない。わかってる。わかってるけど——
隣の友達が「指差し!!!」と叫んだ。後ろの人が崩れ落ちた。あたしは声が出なかった。ペンライトを握りしめたまま、立ち尽くしていた。
光くんは次のエリアに向かって飛んでいった。
膝が震えていた。
モニターの中の人じゃなかった。本物が、ここまで来てくれた。最上段の、一番遠い席にも、光くんは飛んで会いに来てくれた。
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♦︎♦︎ 花道先端、アリーナ席 ♦︎♦︎
空を飛ぶ光くんを見上げている。
スタジアムの端から端まで。
上も下も、右も左も。5万人の誰もが「近くに来てくれた」と思える軌道で、光くんは空を軽やかに飛んでいる。
スタジアムの全方位から歓声が止まない。歌が響いている。バンドの音が地面を震わせている。
全部が同時に、5万人の頭上で渦を巻いている。
⸻
サビが終わった。
光くんが、ゆっくりとメインステージに降りていく。
ワイヤーが体を下ろしていく。ドレスの裾がふわりと広がって、スポットライトの中に降り立った。
着地。
バンドの最後の一音が鳴り響いて、止んだ。
一瞬の静寂。
それから——5万人の歓声が、爆発した。
スタジアムの構造体が震えているのがわかる。座席の下から、振動が伝わってくる。
光くんがメインステージの中央に立っている。息を整えて、少し笑って——
「改めまして」
少し間。
「光..."ちゃん"です」
スタジアムが壊れるかと思った。
「光ちゃーーーん!!!」「かわいいいいいい」「綺麗いいいい」「好きいいいいいいい」
5万人が叫んでいる。あたしも叫んでいた。いつの間にか立ち上がっていた。
⸻
そんな中、歓声から一際通る声が飛んだ。
「そんな格好でフライングしたらパンツ見えちゃうよーーー!!!!」
スタジアムが一瞬、爆笑に包まれた。
光ちゃんがきょとんとして、それから声のした方を見て笑った。
「えー、キュロット履いてるから大丈夫って、衣装さん言ってたよ」
そう言いながら、ドレスのスカートの裾をすすすっと捲り上げた。
モニターに大写しになる。
短いキュロットと——そこから伸びる、白くて細い生脚。太ももまでしっかり見えている。
スタジアムが壊れた。二回目。
「きゃああああ!!!」「脚!!!」「見せるなああああ!!!」「いや見せて!!!」
さっきの「光ちゃんです」の歓声を超える絶叫が、スタジアムを震わせた。光ちゃんはスカートを元に戻して、何事もなかったみたいにけろっと笑っている。
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光くん——光ちゃんが、肩をすくめた。
「花火、瞬間移動、女装、フライング……」
指折り数えるような仕草。
少し間を置いて。
「飛ばし過ぎた? みんな、ついてこれてる?」
「「「わぁあああああ!!!」」」
スタジアムが揺れた。返事というより、もう咆哮だった。
「めっちゃ元気だなぁ!!」
光ちゃんが嬉しそうに笑った。
その笑顔がモニターに大きく映って、また歓声が重なった。
——と、歓声が鳴り止まないまま、ステージの照明がすとんと落ちた。
暗転。
1曲目が終わった。
たった1曲にすでに信じられないほどの密度が詰め込まれていた。
まだ1曲目が終わっただけだ。
このライブは、まだ始まったばかりなのだ。
暗闇の中で、心臓がどくどくと鳴っている。
隣の人の息が荒い。後ろの人が「やばい」と呟いている。
あたしは暗闇の中で、ペンライトを胸に抱いていた。
(……これが、まだ1曲目なの?)




